Jack/Ernest のディスガイズと Wilde の「自己」観

 ― 'expressivism' とディスガイズの伝統の視点から―



細 川  眞



T

Oscar Wilde の喜劇 The Importance of Being Earnest 1 (1895 年初演)において、 Hertfordshire の田舎に住んでいる貴族 Jack (John) Worthing は、ロンドンに上京する口実として「放蕩者」(336)の Ernest という弟を捏造してあるが、 ロンドンでは自分がその弟になりすましていて、一種のディスガイズ(disguise)の形態をとっている。そうした偽装を "Bunburying" (338:1)と呼ぶ、ロンドン在住貴族の彼の友人 Algernon Moncrieff も、田舎に遊びに行く口実として 「バンブリー (Bunbury)という名の万年病人」(326:1)の友人を捏造していて、 しかも彼自身がさらに Jack が偽装する Ernest そのものになりすますことによって劇を二重、三重の偽装の混乱に導いていく。このように、この劇には、ディスガイズ・モチーフは満ち溢れていて、さながらこの喜劇は、ディスガイズによって劇が紛糾する Shakespeare の喜劇を彷彿させるものになっている。

ところで、シェイクスピアのディスガイズは、 Comedy of Errors (1592-93) や Twelfth Night (1599-1600) におけるようにプロットを紛糾させる役割 を果たす一方で、人物のアイデンティティを攪乱させる中で、その人物、劇における 「自己」の姿を明らかにしていく働きもしている。A の人物が B のアイデンティティ を装うことは、A と B が統一する「自己」を生むこともあれば、 A も B も虚構である「自己」を示唆する場合もある。さらにそれは、B はあくまでも虚構であり本質は A だけである 「自己」を表象する場合もある。2

こうしたシェイクスピアにおけるディスガイズとアイデンティティの関係を、『まじめが肝心』におけるそれと比較した時に、ワイルドの特異性が浮かび上がる。 この劇では、 大団円において、 Jack の真のアイデンティティが、彼が偽装していた Ernest (アイデンティティ B)そのものであったという事実が判明するのである。しかも、劇の前半で彼の Jack Worthing という本来のアイデンティティ A は、仮のものであることが明らかにされている。彼は、乳児の時、 Cecily の祖父 Thomas Cardew 氏によって、 Cardew 氏に駅の一時預かり所で間違って渡されたトランクの中で発見され、養子にされたのだった。 発見されたとき、 Cardew 氏が Worthing 行きの切符を持っていたので、 彼は Jack Worthing と名づけられていたのである (333-34:1)。 つまり彼においては、「真」のアイデンティティと思われたもの(A)は虚構で、「虚」のアイデンティティ(B)が真となる、という一種のアイデンティティの逆転がディスガイズから生じる。

このディスガイズによるアイデンティティ・パターンはシェイクスピアにはないものである。そして、田舎で無骨だった Jack が、最後に Ernest として、 "I've now realised for the first time in my life the vital Importance of Being Earnest"(384:4) と機知に富んで "Earnest"=Ernest の洒落た言葉遊びを見せるとき、このアイデンティティの変化には、単に外的な名前だけでなく「自己」の様態における何らかの変化(発展)があるのが感じられる。シェイクスピアのディスガイズの場合と同様、この劇の Jack のそれにも、ある種の「自己」観が表象されているのではないかと推測されるのである。ワイルド自身が、他の作品や評論集で「自己」について多くを語っているのを考慮すれば、その「自己」観は彼のそれの可能性が多いにある。この小論では、過去の演劇的伝統と芸術思潮をふまえて、Jack/Ernest のディスガイズと Wilde の人間観、「自己観の関係を検証してみたい。


2

ワイルドは、周知のように、The Soul of Man under Socialism (1895)の中で、 人生の第一の目的は、 "self-development" であると言う。そして "a man is called selfish if he lives in the manner that seems to him most suitable for the full realisation of his own personality" (1101) と言い、こうした自分自身の自己を十全と実現させることこそ、「全ての人が生きるべき道」であると言う。 これがワイルドの言う "Individualism"(個人主義)であって、それは「利己的」どころか、「利己的でない」("unselfish")ものである(1101)。 彼は "unselfishness" とは、 "letting other people's lives alone, not interfering with them" であり、 "Selfishness" とは、 逆に "not living as one wishes to live, ... asking others to live as one wishes to live" と言う (1101)。 それは、 「隣人に、同じように考え、 同じ意見を持つように要求すること」 であり、 ひいては、社会、 国家の規範に従って生きるよう求めることになる。 したがって後者は、「絶対的な型の一様性を生むことを目指す」 ことになるが、前者は、 楽しいものとして「無限の多様な型」 を認める。 "If he can think, he will probably think differently" がその理由である (1101)。

劇において、 ロンドンへの上京の際に、 捏造した弟 "profligate Ernest" (336:1) に偽装している Jack は、 田舎で Cecily の後見人となって彼女を世話している "serious" (340:2) な Jack とその 「自己」 の姿が大いに異なっている。 田舎における Jack は、 「真面目で」、 「高い義務と責任感」 (340:2) を持った人間となっていて、 家庭教師の Prism 嬢を通して嫌がる Cecily にドイツ語の勉強を強制し、 他人の生き方に干渉している。

Cecily: ... I don't like German. It isn't at all a becoming language....
Miss Prism:Child, you know how anxious your guardian is that you should improve yourself in every
        way.  He laid particular stress on your German.... (340:2)

彼は、堕落して欺瞞に満ちた偏狭な現状の道徳体系、 社会体制を絶対として、それへの従順さ、人との一様性を他人に求める Bracknell 夫人、Prism 嬢、Chasuble 師と同様な、ワイルドの言う「利己的な」人間として出発している。荷物一時預り所の旅行鞄からの Jack(Ernest)の出自を聞いた Bracknell 夫人は、ヴィクトリア朝の狭量なモラリストらしくそこに 「淫らな行為」 ("social indiscretion") が隠されていると指摘し彼を軽蔑するものの、Jack(Ernest)が多くの財産を持っているのを知ったため、娘の結婚相手とするため相応しい親を作り出すように勧告する「利己的な」偽善者でもある (334:1)。彼女が "German sounds a thoroughly respectable language" (329)と Jack 同様ドイツ語を評価している点で、当初の Jack は彼女と同じ「利己的な」人間として出発していることがわかる。

その Jack が、 劇の冒頭で偽装した Ernest として登場し、 Algernon に "What brings you up to town?" (322:1) と尋ねられると、 "Oh, pleasure, pleasure" と全く別人のような返答をする。 そして劇の最後では、 真の Ernest として "Earnest"=Ernest の言葉遊びをするが、 これらの言動はすべて、 ダンディで機知に富んだ美的な Algernon にふさわしいものである。 Algernon こそ、 先に見たように、 ワイルドが 『社会主義下の人間の魂』 で主張する、 「自分が生きたいように」 生き、 「楽しいものとして、 無限の多様な型」 を認める審美的 「個人主義者」 なのである。 Jack は Ernest へのディスガイズで、 正に反時代的な Algernon 的 「自己」 に変貌、 発展していくようなのである。 ワイルドは、 別の人間を装うというこの演劇的手段を、 彼が人生の目的とした 「自己発展」、 「自身のパーソナリティの十全たる実現」、 自己表象に利用したように思えるが、 そのドラマトゥルギーの背景には、 ロマン派からの美学伝統とディスガイズの演劇伝統があるのではないか。


3

Jack による Ernest への変装は、 劇作術の点から言って、 単なる騙しの手法ではなく、 新たな 「自己」 ("unselfishness" の Algernon 的自己) の創出を表すそれだとの見方は、 何ら牽強付会の説でもなく、 Charles Taylor が、 ロマン派時代に生まれたという 'expressivism' の芸術観に由来するものである。 Taylor によれば、 この新たな芸術観とは、 「何かを表現することは、 ある媒介手段でそれを顕現させること ("to make it manifest")」 (374) という表現主義である。 例えば、 顔で感情を表現する、 言葉で考えを表現する、 あるヴィジョンを芸術作品で表現する。 しかし、 'making manifest' ということは、 「そのように現されたものは、 既に以前に系統立てられていたということを意味しない」 (374)。 自然主義的な既存物の再現ではない。 この art は、 ミメーシスの imitation でなく、 "It makes something manifest while at the same time realizing it, completing it" (377) となる。 そして、 この芸術観によれば、 人間の生は "manifesting a potential which is also being shaped by this manifestation" (375) として見られる。 この概念は、 潜在性を現実化する nature というアリストテレス的観念に多くを負っているが、 その完全な形 ("form") に向かう傾向を持つアリストテレス的 nature 観と異なって、 この nature は、 "a being capable of self-articulation" であり自立していて、 ここで近代的 「自己、 主体観念と密接に結びつく」 (375)。 Taylor は "Expressivism was the basis for a new and fuller individualism" (375) と言う。

ロマン派時代には art と morality の両立が図られているが、 やがて 「美学に、 より高次の重要性を与え、 道徳優先思考に挑戦させたのは、 ロマン派以来の expressivism だった」 (423)。 ワイルドの反道徳的芸術至上主義はその典型である。

いずれにせよ、 expressivism, epiphanic art の結実であるワイルドの作品における、 Ernest という虚構の表現、 ディスガイズは、 従って単なる騙しではなく、 彼の 「自己」 における潜在的なものの顕現 (Ernest という 「自己」 の) となっているのである。 その虚構が最後に真のアイデンティになるという事実そのものが、 この顕現を立証するのである。 そして、 この変貌は、 見方を変えれば Taylor が、 19 世紀後半の思想・芸術に多大な影響を与えたとする Schopenhauer の理念の一つ、 "transfiguration, through art" (443) 観念に基づいたものでもあろう。 Taylor によれば、 "nothing but wild, blind, uncontrolled striving" にすぎない nature (i.e. the Schopenhauerian will) が具象物に表現されていると見る Schopenhauer は、 "a notion of the transfiguration of the real through art, a reality which itself is worthless and degraded" (444) を提示したが、 田舎における Jack は、 既に見たように、 ワイルドが批判した 「利己的」 な人間となっていて、 社会の俗物根性と偽善を代表する Bracknell 夫人と同様堕落した社会に束縛されていた。

そうした彼の 「変貌」 を促す art は、 虚構としての Ernest である。 ワイルドは、「芸術について真実なことは、 人生についても真実である」 (Soul 1101) として、人生を芸術作品として扱う必要性を説いているが、 Susan Laity が指摘しているように、Jack はいわば、 唯美主義者の一人、“an artist of the personality”(135)となっていくのである。 Laity は、 この劇は、 "the self-realization of the individual, the development of the soul" に関わっていて、 Jack だけでなくすべての人物が 「パーソナリティの芸術家」 であるとし、 とりわけ Jack は 「ダンディへと発展していかなければならない」 と言う (135)。 彼女によれば、劇の冒頭では、 Jack は、 Algernon が持っている強い 「自己意識」 をもっていないし、従ってまだ本来の自分を知らず、 自身のパーソナリティを発展できないでいるのである。彼の目指す 「自己」 は、 人間の画一化を図って個性を抑圧する社会を風刺し、そのモラルに反抗する 「個人主義」 が確立した Algernon 的なそれなのである。Algernon の享楽性への関心 (食欲、 ピアノ演奏)、 言語的逸脱 (機知・からかい)は、 商・工業化された 「利己的」 で偽悪的な社会への批判のシンボルとなり、それに束縛されない十全たる自己実現を示している。


4

劇は、 Jack が Ernest のディスガイズで、 Algernon 的 「自己」 を発展させるために、 今一つの伝統を使用している。 それはディスガイズの演劇的伝統である。 ワイルドは、 Cecily に興味を持った Algernon が彼女に会いに行く際、 "Bunburying" と称して彼に Ernest への偽装をさせるが、 この Algernon/Ernest と Jack/ Ernest のダブリングは、 シェイクスピアにおいて、 ディスガイズ・モチーフによる自己の変貌、 多面性の暴露を示すときによく使われる双子の演劇的手法の変奏である。

シェイクスピアの The Comedy of Errors (1592-93)では、 Antipholus of Syracuse は、 双子の兄 Antipholus of Ephesus の召使いに彼の主人だと間違えられて、 兄の妻 (Adriana) を知らないと妻を拒否する場面があるが (1. 2. 87)3、 この取り違いのディスガイズ 4 は、 兄の Antipholus の中に潜んでいる潜在的な 「妻に不誠実なアンティフォラス」 の側面を暴露する機能を果たしている。 召使いから 「妻の拒絶」 を聞いた Antipholus of Ephesus の妻 Adriana は、 夫が自分を拒んで食事に帰って来ないのは、 自分を蔑ろにして浮気をしているからだと不誠実な夫のことを怒る (2. 1. 87-101) が、 彼女のこの怒りは、 取り違いを元にしているから滑稽ではあるものの、 あながち的はずれでもないのである。 というのも、 夫は妻への腹癒せに娼婦に妻用の首飾りを与える男であり (3. 1. 117-19)、 又、 妻をロープで縛って、 顔を火で焼くことを誓う (5. 1. 182-83) 専制的な夫であることも後に判明するからである。

この劇では、 こうした同一アイデンティティの 「取り違い」 手法によって、 双子の一方の、 Edward Berry の言葉によれば、 〈仮想の未来〉(hypothetical future) のアイデンティティが暴かれる。 〈仮想の未来〉とは、 喜劇において、 夢や魔法、 劇というイリュージョンの中で再生される、 ある人物の潜在的な将来顕在化しうる自己の姿である (153)。 A Midsummer Night's Dream (1595-96) で、妖精が恋人たちの目に塗った 「愛の汁」 から生まれた一種の夢の中で Demetrius、 Lysander が見せた心変わりの姿は、 彼らの〈仮想の未来〉であった。 シェイクスピアは、 双子の取り違いにおいても、 そうした人の潜在的 「自己」 が演じられるように劇を展開しているのである。

ワイルドの 『真面目が肝心』 では、 こうした状況は、 4 幕版の 2 幕で、 Algernon が演じる Ernest が、 Jack が演じる Ernest のサヴォイでの食事の借金返済に関し、 その取り立てを弁護士に迫られるときに起こっている (349-51:2)。

Gribsby: Mr. Ernest Worthing?
Algernon:Yes.
 .....
Gribsby: I am very sorry, sir, but we have a writ of attachment for twenty days against you at the
       suit of the Savoy Co.Limited for £762 14s. 2d.
Algernon:Against me?
Gribsby: Yes, sir.
Algernon:What perfect nonsense! I never dine at the Savoy at my own expense.... (349-50)

ここでは Antipholus of Syracuse がそうであったように、 アイデンティティを間違えられた Ernest (Algernon) が借金の事など知らないと言って返済を拒むことより、 Jack が捏造していた放蕩者で悪い弟の Ernest 像がリアルに顕現されるのである。 彼の態度は、 "gross effrontery", "ingratitude" (350) だとして周りの人々から非難される。 しかも、 『間違いの喜劇』 で、 アイデンティティの取り違えによって生じた 「妻に不誠実のエフェサス・アンティフォラス」 像が、 実際の彼の姿であったように、 Ernest を演じる Algernon 自身も実際借金だらけの男だった。

Lady Bracknell:... (To Cecily) : Dear child, of course you know that Algernon has nothing but his debts
          to depend upon. (374)

このように、 この二人の Ernest の一致により、 Jack の Ernest 像は、 Algernon 的側面を表象している、 換言すれば、 Ernest のディスガイズを媒介として Jack が Algernon 的 「自己」 に発展したと言うことができるであろう。 ここで大事なことは、 Jack が放蕩者の Algernon になったというモラルの問題ではなく、 彼が Algernon のようなダンディになったということである。 Algernon が借金だらけの放蕩者のイメジをもっているのは、 Bracknell 夫人が代表する金銭ずくの 「利己的」 社会に対して彼がそのアンチテーゼとなっているからである。 しかも、 彼のそうした邪悪な側面は、 その後 Gwendolen が登場して Ernest そのものが嘘だったことを暴露して、 消滅させられている。

しかしながら、 Ernest を媒介とした Jack (Ernest) における 「自己発展」 の側面は、 Ernest (Algernon) が、 Cecily に求愛する時、 "Would you mind my reforming myself this afternoon?" (344) と自己改善を約束したり、 Jack に "... I intend to lead a better life in the future" (349) と更生を誓うという形で喜劇的に予告されている。 Jack の目の前で、 alter ego である Ernest (Algernon) が Jack の〈仮想の未来〉を見せているのである。

こうしたある人物の目前に、 偽装された偽のその人物が登場する場面は、 ワイルド以降の演劇的ヴィジョンからみれば、 Katharine Worth が指摘するように、 オールタ・エゴがもはや手に負えなくなった、ピンター的不条理な状況を示唆しよう (70)。 しかし、 ワイルド以前のディスガイズによるダブリングの演劇的伝統から見れば、 それは人物の 「自己発展」 を表す。 これとよく似たダブリングの状況はシェイクスピアの Twelfth Night (1599-1600) の最終場面にある。この劇で、双子の兄の服を着て男装した Viola は、 Cesario という新たなアイデンティティの中で、女性としての 「自己」 と男性としての新たなそれを調和させて両性具有的 「自己」に発展していく。 彼/彼女は、 男性の Orsino 公爵にも好かれ、 女性の Olivia にも愛され性的に身動きできない状態に陥る時、 イリリアに兄の Sebastian が現れる。 やがて Olivia が双子を取り違えたために愛を巡る喜劇的混乱が生じるものの、 最後に双子の兄と兄の偽装者の妹が、 初めて同場面に登場して、 愛の縺れが解けて二組の異性愛カップルが無事に誕生するが、 この時、 女に戻った Viola は力強い兄 (男) の要素も身につけた女性として再生するのである。 外見上の男の部分は、 兄として独立していく。

『真面目が肝心』 において、 Jack/Ernest と Algernon/Ernest のダブリングによって、 Jack が Algernon 的 Ernest に発展していくという妥当性は、 一方、 共通したそれぞれの 「自己」 の姿を劇が示すことによって一層強められている。 例えば、 Jack は、 田舎で後見人として Cecily の世話をする一方、 ロンドンでは、 弟の放蕩者 Ernest の面倒を見ていることになっていて、 その姿は、 Ernest (Algernon) の借金を払ってやることで喜劇的に提示されているが (352:2)、 Algernon の Ernest も、 田舎に Bunbury という病弱の友人がいて、 親切にも時々ロンドンを離れて世話をしていることになっている。

Cecily:Ernest has just been telling me about his poor invalid friend Mr. Bunbury whom he goes to visit
    so often. And surely there must be some good in one who is kind to an invalid, and leaves the pleasures
    of London to sit by a bed of pain. (348)

一方、 冒頭では胡瓜のサンドウィッチを Algernon に拒否されて悔しい思いをした Ernest (Jack) は ("Please don't touch the cucumber sandwiches" 323:1)、 3 幕ではマフィンを多く食べて逆に Algernon を悔しがらせている。

Algernon:Jack, you are eating the muffins again! I wish you wouldn't. There are only two left. (369:3)

劇では食欲は本能を象徴しているが、ワイルドは、人にある美的感覚は 「最初は、本能として存在する」 (Critic 1049) と言っていて、 このエピソードは Jack の美的 Algernon 化と言えよう。 Algernon は、 "I hate people who are not serious about meals" と言うが、 それは食事に真面目でない人は "so shallow" だからである (327:1)。そして又、「食欲」 のためにはボタンホールに刺す飾り花 ("a buttonhole") が彼には必須のものとなる(344:2)。 W. J. T. Mitchehell が、 "The anthropological model for the expressive aesthetic is fetishism" (16) と指摘するように、この劇の「表現主義」も、フェティシズムと密接である。「サンドウィッチ」、「ボタンホール」への執着は、浅薄でない、 審美的 「自己」を顕現しているのである。 Algernon は、 ピアノ演奏に関しても、

I don't play accurately−any one can play accurately−but I play with wonderful expression. As far as the piano is concerned, sentiment is my forte. I keep science for Life. (321)

と、 皮相的な ("shallow") 時代・社会が要求する科学的正確さよりも、 「感情」 を重んじ、 その 「表現」 を評価する審美家となっている。 ワイルドにおいては、 審美的に生を扱うことが、 「自己発展」、 「自己実現」 になることは既に述べた通りである。


5

人の発展を表象するディスガイズが、 ダブルを使うことによって、 その効果を高める演劇的手法は実はシェイクスピアよりも更に古いものであって、それは 16 世紀の humanist 演劇に遡るものである。 Kent Cartwright によれば、humanist dramaturgy のストラテジーの一つには、 "the deployment of characters of converging identity, characters who are discovered to be simulacra, doubles"(65)がある。劇で、姿がそっくりな人、ダブルであることが発見される人物たち、アイデンティティが一点に集まる人物たちが配置されるのである。このストラテジーでは、ある人物が別個の自己として据えられ、徐々に他人と共有するアイデンティティを暴露することによって、その相互性の発見が、主人公の自己発見、変化をもたらすことになる (65)。例えば、 John Redford の Wit and Science (c. 1530-47) では、 Wit は、Idleness によって、知らぬ間に顔を黒く塗られ、道化服、耳、とさか帽を着せられてIgnorance に変装させられるが、それとともにその振る舞いも Ignorance のように邪悪化する。一種の中世的表現主義のようであるが、これは、「記号が世界・物の一部」となる中世的認識論の反映である。5 いずれにしろ、やがて彼は、鏡の中でその変装を知り、初めて Ignorance との自己の doubleness を気づいて、自己発見に到り、改心していくことになる(813-18)。

『真面目が肝心』 では、 Jack は鏡の中ではなく、目の前にダブルの Ernest(Algernon) を見て、 Ernest としての自己、自己改善する Ernest を発見するようにその手法は近代化されている。劇では、 Cecily を前にした Algernon による邪悪な Ernest の喜劇的改悛という形をとっているが、このダブリングで大事なことは、 道徳的な問題ではなく、Ernest の自己発展の示唆である。

ところで、 ヒューマニスト演劇のダブルにおいて発見するアイデンティティは本質的なものである。 16 世紀のヒューマニスト教育者たちは、 "Essential human identity occurs... as a potential, an immanence, a possibility" (Cartwright 11) と考えた。 人間の 「本質」 は、 「不完全で、 堕落しやすく、 改善できるものの、 完全に実現されるにはその遂行がいる」 (Cartwright 10) ものだった。 ヒューマニスト演劇では、 その遂行に、 "the malleability of selfhood" を明らかにするディスガイズ (Cartwright 159) を使い、 男装でヒロインが、 両性具有的 「自己」 に発展していくのである (細川 39-40)。

ダブルで Jack/Ernest がその自己内から顕現する、 あるいは発展していく Algernon 的自己は、 こうした本質的自己と似ているといえるのではないか。 田舎における Jack としての利己的な 「自己」 は、 Jack のアイデンティティが虚構であったように不完全なものであった。 しかし、ロンドンにおいて、装った虚構の 「利己的でない」 Ernest がその潜在性を顕在化させて自己発展を促し、最後にそうした真の Ernest そのものになったのだが、 それは又ロマン派以来の表現主義 (expressivism) の反映でもあった。 本来、「表現主義は概して、表現不可能な本質……を措定し、 それらが作品中に漠然と顕現すると考える」(Mitchell 35) 6 美学であって、表現主義で表象されるものは本質性をもつものなのである。

ワイルドにおける 「自己」 に対する近年の批評が、 反本質主義的な傾向にあるのは周知の通りである。 例えば、 Jonathan Dollimore は、 ワイルドが "The only thing that one really knows about human nature is that it changes" (Soul 1100) と言ったのを引用してワイルドの human nature 観は反本質主義だとする (10, 11)。 一方、 John Lee は、 "man is a wonderfull, vaine, divers, and wavering subject" (19) だとして 「自己」 の多様性、 流動性、 構築性を指摘した Montaigne の後継者の一人がワイルドであるとした (202)。7 確かに演劇におけるディスガイズ・モチーフには、 それは、 「人のアイデンティティは本質的・根元的に存在しない」 ことを示す (Davis 4) という見方もある。 これに従えば、 Jack による Ernest への偽装は、 彼のアイデンティティはどれもポスト・モダニズム的な構築物 8 であることを意味し、 最後の真のアイデンティティの発見も、 その "Earnest"=Ernest のパン (地口) と同様皮肉であって、 真面目に取り扱う必要がないということになろう。

しかし、ワイルドは、先のドリモアによる引用の後で、 "The systems that fail are those that rely on the permanency of human nature, and not on its growth and development" (Soul 1100) と言って、 変化の意味に成長と発展という本質的なものを示唆しているのである。彼は、 The Decay of Lying (1889) において、

... we are all of us made out of the same stuff.... Where we differ from each other is purely in accidentals: in
dress, manner, tone of voice, religious opinions..... The more one analyses people, the more all reasons for
analysis disappear. Sooner or later one comes to that dreadful universal thing called human nature. (975)

と言って、人間における "human nature" という普遍物を否定していない。 ワイルドは The Picture of Dorian Gray (1890) では Henry 卿に、 "The aim of life is self-development. To realise one's nature perfectly−that is what each of us is here for" (29) と、 人間における自己発展と、 人間性の完全なる成就を人生の目的として主張させているし、 更に、 彼は The Critic as Artist (1891)でも人々の「共通の本性」とその完全性に言及し、しかも、そうした秘められた完全性が成就されるのは芸術(虚構)を通してであると言う。

... it is the function of Literature to create, from the rough material of actual existence, a new world that will
be more marvellous, more enduring, and more true than the world that common eyes look upon, and through
which common natures seek to realise their perfection.              (1026、 イタリックスは筆者)

ワイルドは、多様な個性の実現、発展を主張したが、そうした human nature の自己発展性こそ人の本質と考えたのではないか。その意味では、Jack が最後に発見した自己のアイデンティティは、単なるErnest ではなく、 "Ernest John"(383:4)だったのは示唆的だ。田舎での Jack(John)は全くの虚構でもなかったのであり、 Ernest に発展する胚芽であった。The Importance of Being Earnest での、 Jack/Ernest のディスガイズは、究極的に、虚構を通して潜在的本質(自己)を成就する芸術を象徴していたと結論付けることができるもしれない。



1  以下、 Wilde からの引用はすべて、 J. B. Foreman, ed. The Complete Works of Oscar Wilde (1966; New York: Harper Perennial, 1989) により、括弧内に引用箇所の頁数を示す。
2  シェイクスピアにおけるディスガイズの三つのモードについては、細川第一部第二章参照。
3  以下、 Comedy of Errors からの引用はすべて、 R. A. Foakes, ed. The Comedy of Errors (London: Methuen, 1962) による。
4  M. C. Bradbrook は、双子の取り違いもディスガイズとしている。 Cf. Bradbrook, 160. なおこのディスガイズについては細川第二部第一章参照。
5  フーコーは、古典主義の幕開けに記号と物の分裂が起こったと言う。 Foucault, 58,129.
6  Mitchell は、「表現主義」に 'expressionism' という英語を使っているが、 時代(ロマン派以降)を限定して使った Taylor の 'expressivism' と内容は同じものである。
7  但し、文化唯物主義第二世代の Lee は、第一世代のドリモアと違って、プラトン以来の西洋の「自己」観− "a self-constituting sense of self" (2)を指摘して、人は構築物だが、 "producer of himself" (174) であるとそこに主体性を認めている。
8  Jean E. Howard は、 ニュー・ヒストリシズム批評における出発点の一つとして、 "the notion that man is a construct, not an essence" を措定した。 Howard, p.26.


引用文献

Berry, Edward. Shakespeare's Comic Rites. Cambridge: Cambridge UP, 1984.
Bradbrook, M. C. "Shakespeare and the Use of Disguise in Elizabethan Drama." Essays in Criticism 2 (1952): 159-68.
Cartwright, Kent. Theatre and Humanism: English Drama in the Sixteenth Century. Cambridge: Cambridge UP, 1999.
Davis, Lloyd. Guise and Disguise: Rhetoric and Characterization in the English Renaissance. Toronto: U of Toronto P, 1993.
Dollimore, Jonathan. Sexual Dissidence: Augustine to Wilde, Freud to Foucault. Oxford: Oxford UP, 1991.
Foucault, Michel. The Order of Things: An Archaeology of the Human Sciences. 1970. New York: Vantage, 1994.
細川 眞 『虚と実の狭間で−シェイクスピアのディスガイズの系譜−』 英宝社 2003.
Howard, Jean E. "The New Historicism in Renaissance Studies." ELR 16 (1986): 13-20. Rpt. in New Historicism and Renaissance Drama. Ed. Richard Wilson and Richard Dutton. London: Longman, 1992. 19-32.
Laity, Susan. "The Soul of Man under Victoria: Iolanthe, The Importance of Being Earnest, and Bourgeois Drama." Modern
   Critical Interpretations: Oscar Wilde's
The Importance of Being Earnest. Ed. Harold Bloom. New York: Chelsea House, 1988.
Lee, John. Shakespeare's Hamlet and the Controversies of Self. Oxford: Oxford UP, 2000.
Mitchell, W. J. T. "Representation." Critical Terms for Literary Study. Ed. Frank Lentricchia and Thomas McLanghlin. Chicago:
    U of Chicago P, 1990.
Montaigne, Michael. Montaigne's Essays. Trans. John Florio. Vol. 1. 1910. London: J. M. Dent & Sons, 1965.
Redford, John. Wit and Science. Medieval Drama. Ed. David Bevington. Boston: Houghton Mifflin, 1975.
Shakespeare, William. The Comedy of Errors. Ed. R. A. Foakes. London: Methuen, 1962.
Taylor, Charles. Sources of the Self: The Making of the Modern Identity. Cambridge: Harvard UP, 1989.
Wilde, Oscar. The Critic as Artist. The Complete Works of Oscar Wilde. Ed. J. B. Foreman. Introd. Vyvyan Holland. London:
    Collins, 1966. New York: Harper Perennial, 1989.
_......_. The Decay of Lying. The Complete Works of Oscar Wilde.
_......_. The Importance of Being Earnest. The Complete Works of Oscar Wilde.
_......_. The Picture of Dorian Gray. The Complete Works of Oscar Wilde.
_......_. The Soul of Man Under Socialism. The Complete Works of Oscar Wilde.
Worth, Katharine. "The Triumph of the Pleasure Principle." Modern Critical Interpretations: Oscar Wilde's The Importance of
    Being Earnest. Ed. Harold Bloom. New York: Chelsea House , 1988.

The Chukyo University Society of English Language and Literature

  Previous