中京大学英文学・国際英語学会



ようこそ、現実の砂漠へ


板 倉 厳一郎

Welcome to the desert of the real.   これは昨年完結編が公開されて話題になった映画 『マトリックス』 (1999年) からの引用だ。 私はこの言葉を聞いたとき、 京都での学部生時代の記憶が思いがけずに甦り、にわかに元気が沸いてきた。「砂漠と聞いて元気が出るなんて、頭がおかしいんじゃないか」「英語発音ならマトリックスよりもメイトリックスだ」など無粋なことは言わず、しばらくお付き合いいただこう。

先程「学部生時代」と言ったが、『マトリックス』が公開された1999年、私は英国の貧乏大学院生だった。学割や昼間割引などを使えば2ポンドでも映画を観られたが、当時の異例のポンド高のせいで米ドルが基本のロータリー財団奨学金が底をついてしまった。その前年は同じ奨学生が左うちわで暮らしていたというのに、よくよく運が悪い。そのうえ留学生の常として勉強に追われ、遊べる時期は限られていた。友人に恵まれ、日本では味わえない経験もして愉しんだが、映画はせいぜい5,6本しか観ていない。

だから、私が『マトリックス』を観たのは名古屋で就職してからである。DVDがたまたま値下げされていたから買ってみたまでの話で、「学部生時代」とはまたしても関係がない。

では、私はなぜ自分の「学部生時代」など思い出さなければならないのか。それはこの作品の「こざかしさ」ゆえである。この作品は、私が学部生時代であれば間違いなく「ハマった」シリーズだからだ。

コンピュータ・プログラマーの青年トマス・アンダソン、別名ネオは『不思議の国のアリス』よろしく「白ウサギ」を追いかけ、謎の組織に遭遇する。そのリーダーらしき男モーフィアスが彼に世界の秘密を教える。この世界はコンピュータにプログラムされた仮想現実だ。そもそも人間が認知する「現実」とは神経の電気信号の組み合わせに過ぎないが、その信号が今ではコンピュータから脳にケーブルで直接送られている。一方、現実の肉体は地球を支配する人工知能体の栄養源として「栽培」されている。そう言うと、モーフィアスはネオを「現実の砂漠」へと誘う。

おやおや、まるでボードリヤールではないか。『「2001年宇宙の旅」講義』(平凡社、2001年)の巽孝之氏によれば、『マトリックス』を監督したウォシャウスキー兄弟はボードリヤールを相当意識していたらしく、撮影用台本には名前が何度か現れるという。

ボードリヤールはフランスの社会学者。湾岸戦争時の発言で、当時学部生だった私にも馴染みがある。彼によると、「現実」とは、起こりそうな、あるいは起こったかもしれない出来事がある約束事によって再構成された「まがいもの」に過ぎない。この状況が最も深刻化したのは、彼が「永遠の砂漠」と呼ぶアメリカ合衆国だ。現実には実体のない砂漠のままだが、メディアは「まがいもの」をあたかも現実であるかのように量産し続ける。だから、誰も現実の砂漠には見向きもしない。もちろん、ネオのように赤いカプセルでも飲まなければ、の話だ。

ボードリヤールだけではない。『マトリックス』はさまざまな学術的問題と結びつくように作られている。『「マトリックス」と哲学』(シカゴ、オープン・コート社、2003年)では、分析哲学や認知科学の問題が真剣に論じられる。これに刺激を受けたのか、本邦でも『現代思想』誌が2004年1月に「マトリックスの思想」という特集を組んでいる。哲学者から英米文学者まで勢揃い。『哲学サッカー』(ロンドン、メインストリーム出版、1999年)のような(学海余滴というよりは単なる)お笑い哲学入門とは異なり、どうも大真面目だ。ここまで事態が進むと2003年9月12日付のタイムズ文芸付録の評者よろしく待ったをかけたくもなるが、『マトリックス』が今日的で重要な問題を提起していることは認めねばなるまい。

こういう難しい映画を観たら、内容が楽しめる程度に勉強してみるといい。勉強なんてそもそも自分の経験を整理してよりよく理解するためのものだ。だから、『マトリックス』を理解するための勉強が不純であるわけがない。きっかけはどこにでもある。『ベッカムに恋して』を契機に英国のインド系移民について調べてもいいし、『ロード・オブ・ザ・リングズ』に影響されて幻想文学に興味を持ってもいい。もちろん、映画にこだわる必要はない。あなたの目の前の「現実」は、この意味で決して「砂漠」ではないはずだ。

学部生の頃から、私は調べものや考えごとが好きだった。授業とは関係なく、好きなものはその事実関係などを納得がいくまで調べ、その良さを自分で表現できるまでがむしゃらに評論や関連書を読んだ。こういった無心さにときどき立ち返ってみたいと思う。

(教養部助教授)



The Chukyo University Society of English Language and Literature


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