中野 圭二
長年翻訳をやっていて、今昔の感を覚えることの一つに、「愛する」がある。い までこそ、「愛してるよ」と平気で訳せるが、三四十年前には、'I love you, を そのまま「愛してる」と訳すのには、いくら外国の話であると言っても、勇気を要 した。日本語としてはなんとなく浮いてしまう気がした。なにしろ、そのまた昔に は、「月がきれいだね」と言って、好きだという気持ちを表したという国柄なのだ から、無理もないだろう。
夫婦がお互いに相手のことを指して、「夫」と言い、「妻」と言うのも、最近は 定着したようで、「家内」と言わせようか、「女房」と言わせようかなどと、訳す ときに余計な頭を使わなくてすむので助かる。身近の同年輩の方で、奥様のことを 「妻」と仰有る方がおられて、それだけでその方を敬服してしまう。というのも、 われわれの世代の人間は、「女房」とか「家内」とか、多少なりとも非フェミニズ ム的なニュアンスを持った言い方しかできないのが普通だからである。
翻訳の場合、夫婦や恋人同士が相手を指す 'you, をどう訳しているのか。すでに この世にはない昔の翻訳者たちの翻訳についてであるが、その点を調べたものがあっ て、それをみると、圧倒的に、女性が男性を指すときは「あなた」、その逆は「きみ」 と訳されており、「お前」は無にひとしいから、「お前」がないという点では昔から 翻訳の上では意外に民主的だったのかとも思う。いまはさらに「きみ」ではなく「あ なた」という若い人も多いようだが、翻訳ではまだそこまでは行っていないようだ。
対象の末頃、教養ある女性を妻にした帝大出の医師の述懐で、時代を先取りした ような珍しい話がある。結婚早々に、名前を呼び捨てにしないでほしい、また「お前」 と言わないでほしい、と注文されて困り、それなら「きみ」ではどうかと言うと、 それも嫌だという。さりとて、「あなた」と言うのは、こっちが奥さんになったみ たいで具合が悪い。でも結局「あなた」ぐらいしかなくて、それを少しもじって、 「あんた」でごまかして、一生を通したとか。呼び方一つでもなかなかむずかしくて、 それは翻訳する場合でも同じである。
<する>的言語と、<なる>的言語ということがよく言われ、日本人の思考自体 が、自然にそうなるという考え方をする傾向が強く、日本語は<なる>的言語だと されている。それに対して英語は<する>的言語。これは<もの>が他の<もの> をある状態に<する>という捉え方で、「動作主+他動詞+目的語」と言う構文に なる。事実、英語のセンテンスのなかではこの構文が絶対的に多いという統計的な 数字もある。
これを言いかえると、他動詞を使った文章は翻訳調の感じがして、日本語らしく ないという場合がある。わかりやすく、正しい文章を書く手引きとして定評のある 『朝日新聞の用語の手引き』のなかの「文章の書き方」という章に、文語調は避け たほうがよいとして、例に、「意見の一致をみた」は「意見が一致した」とすると いうのが挙げてある。これは漢語調の<する>的表現を伝統的な日本語の<なる> 的表現に換えたとみることもできる。
いずれにせよ「意見が一致した」はだれがみても日本語らしい言い回しだと思っ ていたら、最近不思議な経験をした。充分に達者な何人かの若い翻訳者に下訳をお 願いしたとき、複数の方が「意見を一致させた」と他動詞的に訳されていた箇所が あったので、当然のように「意見が一致した」と直して、それで事足れりと思って いたら、三十代と思われる編集者が校正刷りのその部分を、またも「意見を一致さ せた」に戻したのである。これらの方々にとっては、どうやらそのほうがぴったり くるように感じられたということなのだろう。日本語も変化していくのは避けられ ないが、変化の方向は、もしかして翻訳調的な日本語のほうへ向かっているのだろ うか。日本語は伝統的な日本語と翻訳調の日本語とに二分化していくとする見方が あるが、ひょっとして後者のほうが主流になるときが遠い将来にはくるかもしれな いと思ったりもしている。