罪深く、哀れなヒーロー

萩  三恵



 その強烈な印象のために感慨にふけるという読書経験は、所謂「愛読書」という ものの枠を広げてくれるに違いない。例えば、展開される出来事が深刻で、社会性 を明確に示す「まじめ」な小説に魅力を感ずるのは、主人公が「ヒーロー」となり 得るまでの過程が、あまりにも劇的であるからだろう。そのために私たちは、彼を つき動かし、命がけの行動へと駆り立てた力が何に由来するものであるかと思索す るのである。

 Richard Wright の Native Son (『アメリカの息子』黒人文学全集1巻・2巻) は、タイトルから大方の察しがつくだろうが、祖国アメリカの正義や理想といった 信念に対する懐疑を、黒人作家の側から具象化している。「アメリカ合衆国という 白人優位の社会において、奴隷としていわば移植された黒人種の人たちが、被抑圧 者としての立場から、いわば後発の形で、人権と独自の文化を主張していく階梯に は、特定の異人種がその社会に融合できるか否か、その社会にはこのような融合を なし得る有機的な機能があるのか否か、なし得るとしてその結果、この社会にはど のような変質が生ずるのか、といった社会的、文化的課題ももたらされることにな る(『アメリカ——弱者の目を通して』77 頁、徳末愛子編著、こびあん書店)。」弁 護士 Max が、白人女性を殺した黒人青年を養護する法廷の場面には、被告人に付与 したと言えるこのような歴史的背景を念頭におかなくてはならない。この殺人は個 人的問題ではなく、アメリカの社会機構の問題であり、不可避な犯罪であると Max が主張する根拠がここにあるのだ。

 弁護士側のように Bigger Thomas をむしろ被害者として考えるためには、Mary Dalton を殺害する場面をいかに扱うべきであろうか。Bigger は、自分が Mary の 部屋にいることを Dalton 夫人に気付かれまいと、彼女を窒息死させ、燃えさかる 炉にその死体を投げ入れた。ところが、どうやっても頭だけが炎の中に入らないた め、 Bigger は彼女の頭を斧で切り落とさなければならなかった。その時、何か物 音がし、ぐるりと彼が振り向くと、そこには、 Dalton 家の白い猫が彼の身体ごし に、燃えている炉の中からだらりと垂れている Mary の白い顔を見つめていたのであ る。(その場面の情景描写から引用する。)「二つの緑色に燃えているプールが——告発と有罪のプールが——トランクの端にうずくまっている白いぼやけたものから、 彼をにらみつけていた。」目撃者として描かれたこの猫についてのトリックは、 Bigger を殺人者として告発するに留まらず、彼に悪なる存在であることの<恐怖> を与えている。だが、 Bigger の<恐怖>は罪を犯した今、彼のなかに生まれたも のではない。シカゴの黒人街の薄汚れたアパートで目覚め、アメリカ北部の都会で 生きてきた彼の人生のなかで形成されてきたものなのである。つまり、現実社会に おける制度的な既成事実の所産である、黒人であることの罪悪感と白人に対する憎 悪によって、 Bigger の<恐怖>は構成されたものなのだ。そして、歪んだ善悪観 念の下で、いかにして白人の中に交わるかと問われる事態に陥る時、この<恐怖> は、彼の存在を脅かすことになる。 Bigger は親切心から Mary を部屋まで運んだ にもかかわらず、使用人である彼が、真夜中にその屋敷の娘の部屋にいるという状 況は、それだけで、彼を犯罪者と決定づけるに足る。それが現実というものになっ てしまっているのだ。ゆえに Bigger は、<恐怖>から逃れるために何のためらい もなく Mary を殺したのである。

 黒人として究極の罪を犯した Bigger は、逃亡者となりながらも、<恐怖>の混 じった一種の誇りを感じている。(Mary 殺害後、アパートに帰る場面から引用す る。)「彼は不意に立ち上がり、大声で、おれは金持ちの白人の娘を、ここにいる 誰知らぬものもない一家の娘を、殺してやったのだぞ、と言って聞かせてやりたか った。」 Bigger は、社会を成り立たせている人為的なルールを破るという、並は ずれた偉業を成し遂げたことによって、単に一個の人間として独立するだけでなく、 「ヒーロー」となろうとしているのである。しかし、並はずれた行為の結末は見え ているというものだ。雪の降り積もる廃墟と化したビルの屋上で、 Bigger は銃撃 戦の末、逮捕される。だが、 Bigger の様子には卑屈な態度は見受けられず、彼の 精神は今や、「ヒーロー」としての潔さで満ちている。(留置所の Bigger のもと に牧師が訪れる場面から引用する。)「俺を殺したがっている者たちにとっては、 おれは人間ではないことに、あの創造の図には含まれていないものに、なっている のだ。だからこそ、おれは抹殺したのだ。生きるために、自分のための新たな世界 を創造したのであり、そのためにおれは死ぬ運命になっているのだ。」 Bigger は 「ヒーロー」として、死すらも問題ではなく、死も一つの勝利だと見なせるほど、 強烈に生きたのである。

 しかしながら、決して許されることのない罪人は、彼の死にたいする態度さえも 規制される。そこには、黒人青年が白人女性をあやめたという事実と、彼への群衆 の怒りが存在するのだ。何が自分を殺人に追いやったかを、人々に判らせることな ど Bigger に出来るはずもなく、彼の狂信的な主張のための死は、ただ軽蔑される だけなのである。 Bigger の死刑執行を知らせる、冷たく重い鉄の扉が閉じられる 音は、読者を深い絶望の淵に沈めることだろう。せめて、罪深い「ヒーロー」を哀 れみたい。

(大学院博士課程学生)


The Chukyo University Society of English Language and Literature
Last modified: Oct 2, 2000

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