酒井 正志
旅に出るといろいろと思わぬ出会いを体験する。 こんなことがあった。もう何年も前のことになる。 夏休暇を利用してイギリスに滞在した折、数日間ローマにでかけた。 全世界に8億人の信者を抱えたカトリックの総本山ヴァチカン市国にある ヴァチカン美術館を訪れるためである。 ルネサンス美術に関心のある者にとってこの美術館は 一度は訪れねばならない場所である。 ヴァチカン美術館はイタリア語で Musei e Gallerie Pontificieが示す通り、 複数の博物館の(Musei)と複数の 美術館(Gallerie)から成る。 今思い出すままにいくつかの作品をあげてみても、ピナコテカ(絵画館) にはジョットの祭壇画やラファエロの「聖母戴冠」「フォリニョの聖母」 「キリストの変容」の三図、ダヴィンチの「聖ヒエロニモ」、スタンザ・デラ・ シニュトラ(署名の間)にはラファエロの「アテナイの学堂」と 「聖体の論議」、そのすぐそばのカッペルラ・ニッコリーナ(ニコライ五世の 礼拝堂)にはフラ・アンジェリコの壁画と、どれをとってもそのそばに立てば 暫し釘づけされてしまう傑作ばかりだ。 しかしこの美術館の白眉は何といってもカペルラ・システィーナ(システィーナ 礼拝堂)であろう。法王シクストゥス四世が建立した礼拝堂で、 完成と同時に法王は当時の巨匠たち、ボッチチェルリ、ギルランダイヨ、 シニョレルリ、ベルジーノ、ロッセルリらの側壁の「キリスト伝」と 「モーゼ伝」とを描かせた。 その中のボッチチェルリが描いた「モーゼの青年時代」はプルーストの 『失われた時を求めて』の中に登場することでも有名である。 正面に描かれた「最後の審判」と天井に描かれた「天地創造」はいずれも ミケランジェロの手になるものだ。 システィーナ礼拝堂に立つということは、歴史の始まりともいうべき 「天地創造」と歴史の終りともいうべき「最後の審判」に囲まれて、 我々は「歴史」の真只中にいることなのだ。 その壮大さに圧倒され我を忘れて立ちつくしている時だった。 私と妻は、「説明しましょうか」と日本語で語りかけられた。 振り向くと襟の立った白い法服を身につけた 柔和な表情の日本人神父が立っていた。 「説明しましょうか」と言われて、さて何と答えようかと一瞬迷ったものの、 彼の熱心そうな目にうながされて、 気がつくと「ええ、お願いします」と答えていた。 「それでは」と言われるままに一旦システィーナ礼拝堂を出て、 地下の現代宗教画コレクションから彼の説明を聞くことになった。 いや、驚いた。よく知っている。実にいろいろなことをよく知っている。 私も勉強しているつもりでいたが、彼の知識はそれどころではなかった。 一体この人は何者なのだろう。
再びシスティーナ礼拝堂へ戻り、「天地創造」、「最後の審判」、 側壁の何枚もの絵について詳しい説明を受けた。 すると彼は「おもしろい所へ連れて行ってあげましょう」と言う。 「最後の審判」の右下と左下にそれぞれ扉があり、 右側の扉は通路になっていて参観者が出入りできるようになっているが、 左側の扉の前にはロープが張ってあり、しかも守衛が立っていて、 立入禁止になっている。 彼はその守衛に近づき、一言二言イタリア語で話しかけた。 すると、何とその守衛はロープをはずし我々をその扉の中に入れてくれたのだ。 そこは10畳ほどの広さの小部屋で壁に添って赤いソファーが置かれている。 「ここは嘆きの間といいます。」法王が亡くなると、 ここシスティーナ礼拝堂で新しい法王の選挙が行われる。 その間、何人かの法王候補者はこの小部屋で選挙結果を待つことになっている。 やがて結果が伝えられて新法王は礼拝堂に出て挨拶をする。 落選した候補者たちは選ばれなかったことを嘆いた。 そこでこの小部屋は「嘆きの間」と呼ばれているそうだ。 「そこの赤いソファーにお座りなさい。写真を撮ってあげましょう」と 彼に勧められたものの、歴代の法王になられた方々が ここに座っていたのかと思うと、 思わず「いえ、いいんです」と答えてしまった。 この小部屋の片隅に小さな階段がついていて、二階の部屋にはヴァチカンの 宝物が所蔵されているという。「嘆きの間」を出ると、 「さて、次はどこへ行きましょうか」と彼は言ってどんどん歩いていく。 私たちは彼のあとを追いかけるようについていく。 これから先は立入禁止の札がかかり守衛が立っているところまで来ると、 彼は再び一言二言守衛に語りかけた。 他の参観者たちが訝しげに見つめているのを尻目に、 私たちは立入禁止の場所へと入っていった。 迷路のような廊下を通り、着いたところがパオリナ礼拝堂。 パウロ三世によって建てられた小さな礼拝堂で、 法王の個人用の礼拝堂になっている。 ここに案内してくれたのは、この礼拝堂に、 ミケランジェロの絶筆といわれているフレスコ画「聖パウロの回心」と 「聖ペテロの磔刑」があるからだ。 東京芸術大学美術科の教授がかつてヴァチカン法王庁に参観許可を 申し出たものの、許可されなかったという曰くつきの絵である。 この絵を見られるとは思ってもいなかった。 十字架に釘付けされ、逆さまにされたペテロの、 いかにもミケランジェロが描いたと思われる筋肉の躍動するすがた。 思いがけずこの絵を見ることができて茫然としていると、 「写真撮ってもいいですよ」と彼。 システィーナ礼拝堂の中も撮影禁止になっているのに、 ここで写真を撮るわけにもいかないだろうと思い、 「いえ、しっかり目に焼き付けますので、結構です」と、断った。 「このクッションは法王が祈られるとき膝まづくのにお使いになるものです」 と祭壇の前に置かれた小さな赤いクッションを指して彼は言う。 「このクッションに膝まづいてみませんか。写真を撮ってあげましょう。」 何と写真好きな人なのだろう、この人は。 いや、それにもまして、この人は何故こんなにも自由にヴァチカン美術館の中で ――いや、ここはもうヴァチカン美術館ではない、ヴァチカン法王庁の中だ―― 振るまうことができるのだろう。 本当にこの人はどんな人なのだろう。 法王ヨハネ・パウロ二世が日常的に使っておられるクッションに、 私たちなどが膝まづくことはできないという思いで、こちらも丁重にお断りした。
祭壇の背後には数人しか乗れない小さなエレヴェーターがある。 日曜日に法王はこの礼拝堂で祈られたあと、このエレヴェーターに乗り、 下に降りて、バルコニーからサン・ピエトロ広場に集まった民衆に 祝福を与えるのだそうだ。 我々の不審な思いを全く意に介さないかのように、 彼は私たちをエレヴェーターに乗せ、バルコニーへと私たちを導いていく。 「ここですよ。」窓からはサン・ピエトロ広場が臨まれた。
「法王のお部屋をご覧に入れましょう」とまたしても彼は驚くべきことを言う。 うながされるままに廊下を進んでいくと、法王の部屋の前に出た。 「ここです」と彼はドアをノックする。どうしよう、法王が出ていらっしゃる。 こわいような、光栄なような複雑な思いで胸が締め付けられてくる。 暫く待ったが、中からは返事がない。 彼はノブに手をかけ、鍵がかかっていることを確認すると、 「そうでした。今、法王様は別荘に行っておられてお留守でした。 残念ながら部屋は見せられません」と言うと、 「代りに法王庁の一番重要な場所へ案内してあげましょう」と、 またしてもどんどん歩いていく。どこをどう通ったものやら。 「ここは法王庁の中枢で、世界中の情報を集めているところです。」 部屋の中では何人もの人たちが頭に大型の レシーヴァーをつけて無線を傍受していた。
その後、ラファエロが描いた流星の天井画のある「流星の回廊」を通り、 再び、最初のシスティーナ礼拝堂へ戻ってきた。 「さあ、これで全部ご案内しました。」私は丁重にお礼を言いながらも、 これほどまでの案内をしてくれたのだから、「さて、案内料として、 何々リラ頂きます」とか何とか言われるのではないか。 今から思うと自分でも恥ずかしくなるような、 何とも小っぽけな思いにとらえられていた。 ここはイタリアだ、イタリアでは何が起きてもおかしくない。 そんな思いをよそに、「それでは失礼します」と彼は一言だけ言って 立ち去ろうとする。慌てたのは私の方だ。 「あの、ちょっとお待ち下さい。失礼ですが、どういうお方で、 どうしてこれほど自由にヴァチカンの中を歩けるのですか」と 私は思い切って尋ねた。「私は法王のそばにいる者で、 Iと言います。 法王は私に法王庁の中のどこを案内してもよいという許可を下さっています。 ほら、あそこの側壁の壁画にシートがかかっていますね。」壁画の一枚に シートがかかっていて、その中に足場が組まれていたのは、 この礼拝堂に入ってすぐに気がつき、壁画の全体像を見ることができず 残念だと思っていた。 長年の間に絵にこびりついた埃を払う修復作業をしているのだ。 埃を払われた壁画は500年近い眠りから醒めたかのように実に鮮やかな色彩を 私たちの前に現わす。描線の躍動感、豊かさで有名であった ミケランジェロが実は豊かな色彩感覚の持ち主であったことが分かったのも この修復作業による原画の再生によってであった。 システィーナ礼拝堂のすべての壁画の修復には莫大な費用と時間がかかる。 その費用を負担したのが日本、もっと正確に言うと、日本テレビであった。 修復に9年かかったことはあとで知ったが、 日本テレビはこの修復作業を撮影し、修復終了後全国に放映したから、 その番組を見た人も多いと思う。 「法王は日本に大変感謝し、私に法王庁の案内を許可して下さったという訳です。 今日は久し振りで暇ができましたので、ここへやったきたのです。 先年、法王が訪日なさった折には、私も通訳として日本へ行ってきましたよ」 と彼は事情を説明してくれた。 「それにしても、この礼拝堂の中には、日本人がたくさんいたのに、 何故私たちに声をかけて下さったのですか」と私。 「それは何故でしょうね。私にも分かりません。」何故なのだろう。 それは恐らく誰にも説明のつかない「出会い」だったのだろう。 柔和な微笑みを浮かべてそう語る I神父に もう一度お礼を申し上げて私たちは別れた。 I神父に出会った至福を深く感じながら、 もう一度システィーナ礼拝堂の壁画、天井画をじっくりと味わい、 私たちは礼拝堂をあとにした。
暫くして帰国した私たちは、数年前の法王来日の折に録画してあった 報道番組のビデオをとり出し、再生してみた。 法王のそばにはいつも I神父の姿があった。