織田 まゆみ
昨年の秋、修論で頭がいっぱいの頃だ。ある国際交流組織の次年度東海支部長の役を夫にという依頼が来た。この役は、配偶者も引っ張り出されること必須であったから、断固お断りした。しかしテキもさるもの。夫を飲み屋に監禁した上で、そこから私に電話をかけてきたのである。最初の現支部長あたりは軽くあしらっていたが、前支部長、前々支部長ときて前々々々支部長まで来ると何だか妙な気分になり、ついに夫の意思決定の邪魔をしない約束をさせられた。・・・そして夫は支部長となり、私は毒食わば、の心境で、その団体の国際会議が催されるデンマークへ行くことになったのである。
ロンドンで SAS に乗り換える時、禁煙席かどうかが一番気がかりだった。たどたどしく質問する私に、カウンター嬢はあっさり告げた。「全席禁煙」ワァオー!行く前からデンマーク好きになっていた。コペンハーゲンには、その日ホームステイさせてもらうヨルゲンと関東のSさんが迎えに来てくれていた。寒い。名古屋より20度以上低い感じ。夕方だったが、これからちょっと観光につれていってくれるという。有名な人魚の像は、河辺にひっそりと座っていた。何の囲いもない。かぼそい体の線が何だか悲しかった。宮殿に行ったが、全然いかめしくなく、建物も古びていた。衛兵は何人かいて、一緒に写真に入ってくれた。でも近付こうとすると「ワンメートル」といって私達を追い払った。帽子の下の顔は若かった。この国の王族は、大変庶民的で親しまれているそうで、王女が道路工事を手伝っている絵はがきもあった。このような観光で時間を費やしたつもりなのに、空はあまり暗くなっていなかった。白夜なのである。夕方5時くらいの明るさが、9時10分まで続いていたのだ。
ヨルゲンの家は簡素だったが、静かで時がゆったり流れた。15才の女の子と10才の男の子もいたがみんな英語ができた。小さな国だからこそ、より語学が大事なのだそうだ。翌朝庭にでてみたが、実のなる樹木があり、木の上の家の残骸があり、花がいっぱい咲いていた。そして草。日本だったら背丈以上にのびてヘビもでて、と思われるところだがやはり北国。ラブリーなのである。おいしいパンと数々のチーズと飲み物という「楽」そうな朝食とともに、主婦としてはうらやましい環境であった。
次の朝、奥さんのマリアンとともに、列車でフュン島オーデンセに行く。アンデルセンの生地である。私がデンマークへいくことになった旨を原先生にご報告すると、先生は大変喜ばれ、列車ごと連絡船に乗りこむフュン島への海路、白鳥が舞った神秘的な思い出を語って下さった。そこで私も大いに期待したのだが、海底トンネルができていて、神秘のかけらもなかったのである。
オーデンセでは、アンデルセンの博物館と生家を訪ねた。アンデルセンは、天才としての自信とひどい劣等感が同居していたようで、個人的にはおつきあいしたくない部類の人という印象を強くもってしまった。彼に一ヶ月滞在されたディッケンズのお嬢さんに同感である。そしてアンデルセンの生家ときたら、びっくりする程の小ささだった。この中には父親の仕事場もあったというのだから、一人一畳あるかどうか……。生家には大勢の子ども達も見物にやってきていて、違ったことばが飛びかっていたが、さすが東洋人には会わなかった。ただでさえ寒い上に、雨が降り出したので、名古屋から一緒にいったKちゃんは、有り金全部はたいて、編み込みカーディガンを買った。この高価な買い物と同時に、彼女は"嫁"が家をあける際のいざこざすべてを忘れ去り、私たちの珍道中は加速することになるのである……が、残念ながら紙面がつきた。
混沌と騒音の過剰な国からやって来た私にとって、デンマークは、目にも耳にも静かな国だった。帰りたくないなと思ったのは、新婚旅行で行った沖縄以来二度目である。
※ ある国際交流組織とは、社団法人 C.I.S.V. のことです。プログラムの1つに、各国の11才の子ども達が約一ヶ月学校などの施設で生活する「子どもの村」というものがあり、子どもの世話をしつつ、村の運営にもあたるリーダーの募集を、東海支部でも毎秋、行なっています。大変責任は重いのですが、リーダーの旅費等は無料です。プログラム等についてご興味のある方は、〒461-0005 東区東桜2-14-7鈴木ビル2F C.I.S.V.日本協会東海支部宛にお問い合わせ下さい。