ピルグリム・ファーザーズ

片山 厚



清教徒の一団が初めて北米大陸にその足跡を標したのが、広く人口に膾炙してい るプリマスの岩の上ではなく、実は遥か北東に数十キロ、海を隔てたケープ・コッ ドの砂浜であったということを知らない人はいない。ピューリタンと言われ、ピ ルグリム・ファーザーズと呼ばれるこの百数十名の人々が必死の覚悟で大西洋を 渡り、新大陸に辿り着くまでの波瀾万丈の物語はともかく、この旅路の目的は崇 高な精神に支えられたいかにも劇的なものであった。宗教上の迫害から逃れ、自 由の天地を目指した彼らの所業は偉大な国家の象徴として絶好のものであろう。 したがって、開拓初期にあってどう見ても中心的な存在とは思えない植民地プリ マスでも、ともあれ新大陸第一歩の土地として祭祀の中心として奉じられて何の 不思議もないだろう。

ただ、歴史的事実にこだわれば、船の墓場ともいわれる難所を逃れ、メイフラワー 号が錨を投じたのはケープ・コッドの先端、プロヴィンスタウンの港であり、疲 れ果てた体を横たえたのはその砂浜であった。肘を曲げて大西洋に突き出した腕 のような形のケープ・コッドではあるが、紛れもなく大陸とは地続きの本土であ る。

いわば大陸足跡の本家であるプロヴィンスタウンは、この事実を忘れるはずはな い。伝説となったプリマス植民地には及ぶべくもないが、機会を得てはこの事実 をひたすら賞揚することを忘れない。第二次世界大戦の最中から始まった「メイ フラワーU世号」建造とその大西洋横断計画は様々な困難を経てようやく1958年 に実現を見たのだが、「砂丘の詩人」ハリー・ケンプを中心としてこの成功を喜 ぶ港町の人たちの有様は、この土地の自由で闊達な性格もあってか、尋常ではな かったという。そういえば、プリマスの植民地がようやくその態を成す頃になる と、清教徒の峻厳な戒律を嫌って、そもそもは雑多な集団であったためか、一部 の人々がプリマスを離れ、再びケープ・コッドに自らの土地を求めて移住する事 態が発生している。農事を志して永住することの難しさを予想した彼らにとって いかにも皮肉なことではあるが、それゆえにこそ今にいたる土地柄も肯けるとこ ろである。事実、我らこそかの始祖たちの純粋正当な末裔だと自負する者もいる という。

プロヴィンスタウンの町が新大陸第一歩の総本家を誇りとして建立したのが「ピ ルグリム記念塔」(The Pilgrim Memorial Monument) である。それほど大きくは ないこの港町の丘にそそり立つこの塔は、1907年8月、大統領シーオドア・ロー ズヴェルトの出席のもとに起工式を行ってから3年の歳月を経て完成、高さ約77 メートル、一辺が約9メートルの四角い柱状で、丘の上にあって海抜167メートル からの視界を有している。遮るもののないその展望は、東はただひたすら見晴る かす一面の大西洋であり、西は予想以上に茫漠としたマサチューセッツ湾を挟ん で彼方のプリマスを望むことになる。いかにも開拓の始祖たちに相応しいモニュ メントと言ってよいであろう。そしてこれを作り上げたこの町の住民たちも、素 朴で素直に思いのままに振る舞い、陽気でしかも不屈の気概に溢れんばかりに事 に当たったのだ。「ニューイングランドによく見るような財産とか身分に汲々と する態度等」エマソンに言わせれば、「この土地にはまったく見当たらない」の である。

しかし、建国の礎ともなり、国家の精神をその根底で支えるプリマスの岩と、夏 のリゾート地にもなって観光客が先人の業績を偲ぶよすがの砂浜とをここで比較 して、両者の違いを論ずるつもりはない。歴史上の些細な出来事が、後の世でい かようにも意味を変えていくことは周知のことだ。ただ、その些細な事実そのも のを忘れなければよい。

ではピルグリム・ファーザーズとはなにか。「巡礼始祖]と称されるこの集団は、 そもそも「オールド・カマー」とか「フォーファーザーズ」とかいわれていたも ので、「巡礼」という呼称が最初から使われていたのではない。つまり彼らが抱 いていた理想とその実現を信じてやまない精神を無限に増幅する手段であったと もいえるだろう。彼らの巡礼もまたスケールは異なりこそすれ、旅がいつもそう であるように、目的地の楽しみと、行程の喜びと、やがて手にするはずのいわば 回帰の慰安とでも言うべきものから成り立っているはずである。このいずれを重 視するかによって、旅の趣もそれぞれ異なったものとして意識されることになる。

ピューリタンとして出発した「巡礼始祖」たちにとって、目的地の楽しみは自明 であった。行程に喜びを見出すのは尋常ではなかったであろう。しかし、それも 篤い信仰に支えられていれば難しいことではあるまい。しかし、彼らにとって旅 の終わりの安らぎなどおよそ存在することはない。言うまでもなく、自由と平等 を理想として掲げた彼らには帰るべき故郷はないのだから。

ただ、未来への強い志向は当然のように過去への回帰を求めることも事実である。 おおげさに言えばそれが文化というものの必然的な営みだからである。したがっ て、いわばその過去と未来の接点に位置づけられて旅をする運命のアメリカは、 未来を支えるものを絶えず模索して行かなければならないのであろう。神格化さ れようとしているプリマスの岩を見てトクヴィルが「人間の偉大さはその心のう ちに存在する」と言ったのもその点についての言及に思えてならない。

いく度かケープ・コッドを訪れたエマソンは、秋、あるいは冬の最中、激しい嵐 の季節にこの地を訪れることを薦め、そこに立ってようやく「アメリカ全土を背 にすることができるから」と言っている。一瞬逆転したように思われるこの発想 が、実は長い歳月を経て今日まで人々の心に生き続けていることは疑いない。

そういえば、アメリカの歴史と文化にまみれてしまうと、坂道を駆け降りるよ うな勢いで突き進んでいる批評活動の営みの中に、未だにピルグリム・マザー ズとかペアレンツが登場しないのは何故なのかなどとつい考えたくなってしま うのである。

(文学部教授)


The Chukyo University Society of English Language and Literature
Last modified: Fri Apr 23, 1999

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