「東南アジア青年の船」 から戻って

大塚 陽子



私は第24回「東南アジア青年の船」に参加し、平成9年9月から1l月にかけてアセアン10カ国の青年たちとともに、総勢400人近くの参加者を乗せたにっぽん丸に乗り込み、シンガボール・インドネシア・マレーシア・タイ・ベトナム・ブルネイ・フィリピンを巡り、日本でプログラムを終えた。

ざっと事業内容を説明すると、l8歳から30歳の各国の青年が生活を共にしながら各国を訪問するという方法で、個人レベルの国際交流をしようというもの。総務庁が行っている。あの紀子さまが参加していたということで名が知られていることと思う。

具体的な活動は、船内ではディスカッション・スポーツ活動・グループ活動・クラブ活動など、そして各国が国紹介の展示パフォーマンスを行う。キャビンは3人一室で、必ず他国参加者と同室となる。私はシンガボール人とインドネシア人と同室であった。各国では5日間停泊し(日本のみ8日間)、公式セレモニー・表敬訪問(フィリピンでは全員がラモス大統領に謁見した)・ホームステイ・社会見学を行う。

私は船内での生活の方が断然好きであった。仲間と一緒に過ごす時間・が何より貴重であったからだ。酔って暴れたこともディスカッションでいきなりセクレタリーにされて棒立ちになったことも船酔いで一日中寝込んだこともいい思い出であるし、キャビンメイトと他のキャビンにいたずらこ話を掛けまくったのもみんなでデッキでイルカを見たのも・・・、たくさんありすぎて書き切れない思い出があった。

私が「青年の船」と出会ったのは3年ほど前のことである。場所はフィジーの首都スバ。私は青年海外協力隊員としてそこにいた。「世界青年の船」にその年フィジーが参加しており、参加青年を乗せた「にっぽん丸」(帆船の「にほん丸」とは別物である)がスバに寄港し、在留邦人としてレセプションと船内公開に招待されたのだった。

「にっぽん丸」の豪華さには皆感激を隠せなかった。こんな船で多くの国の人々と航海ができたら何と楽しいことだろう、と単純に思った。ただ年齢上限が29歳までと聞き、帰国時にはすでに30歳となっている自分には参加は無理だと分かり、がっかりしたものであった。

帰国したのち、広告に交じっていた「にっぽんナウ」という総務庁発行の冊子を何げなく読んでいた私は、たまたま「青年の船」参加者募条の記事を見つけ、そして「東南アジア青年の船」に関しては年齢上限が30歳だと知った。

思い立ったら行動は早く、具体的な事業内容など知らぬまま要綱を取り寄せ必要書類を提出し試験を受け合格し事前研修を受け空手を習い(*やったことがないくせに担当者になってしまったため)荷物をまとめ東京に発ち直前研修を受け東京晴海埠頭を出港した。

協力隊に関しても、博士過程の受験に失敗し男とも別れ、自分の居場所を見失っていた状態の時にたまたま新聞で募集を知り、要綱を取り寄せ・・・、という具合に始まっていったのだった。何も詳しいことは知らぬまま・・・。

「青年の船」参加者、協力隊買の多くが、何度もの挑戦ののち合格を勝ち取り、参加することに人生を賭けていると言う人までも居た中、いつも私が浮いていたのは、事業に対する思い入れのなさのなせる技であろう。

それはそれでそれなりに事業には貢献しているようではあったし、まあ熱くならなくてもいいのじやないか。こんな私であることの自分の役割、というのはあったようだし。自分としてもこの上なく有意嚢な経験と多くの友人を得たと思っているし。

こんな私のようなヤツでも合格してしまうのだから、みなさん、もっとどんどん国際関係事業に挑戦してみましょう。地獄も見れば拷問と感じる時間も多いが、それを上回る楽しさがあって、素晴らしい経験になること請け合います。そんなこんなで20代後半から30代前半の多感なる(?)日々をふらふらと過ごしてしまった感もあるが、ま、所詮女は30代からだもの。

(大学院研究生)


The Chukyo University Society of English Language and Literature
Last modified: Thu Apr 30, 1998

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