“自己チュー”に居直る

中島 信子



この春、ひとり暮しを始めるといって大学生の娘が出ていって、入れ代わりに学生生活を終えた息子が“しばらく住まわせて”といって戻ってきた。ようやく私のひとり暮しが始まると思ったのに…と思いつつ、ま、あとしばらく子育ての余韻(24才で子育てはないですね。単なる同居です。)を楽しんでもいいかと受けいれ、いやいやながらの“一部分”の引越し騒ぎの中で思いがけなく、なつかしいものに出会った。

黄色に変色したわら半紙にガリ版刷りの20ページほどの小冊子である。表紙にはひらがなで大きく「なな」とあり、襲表紙には「名古屋ユネスコ学生連盟卒業文集、昭和45年2月28日」とあった。ユネスコというサークルを卒業するにあたっての人生への決意のようなものが、硬く未消化な文章で綴られており、恥ずかしながら自分の文章も発見してしまった。

例えばこんなふう。「あらゆる現象には必らず過去があり未来がある。全ての存在物は永遠に変化発展してゆくものだという歴史の弁証法を完全に自己のものとし、それへの積極的な担い手でありたい」などと。

東京へ出てきてから、不本意ながらも5回の引越しを経験した。人生の様々な選択は引越しを余儀なくさせる。引越しは、たまってしまった人生のガラクタを整理し、失くしたくないもわまで失くしてしまうこともあるけれど身辺のホコリを落とすよい機会だ。

大学を卒業してから20数年ぶりにあらわれたこの文集は、これまでの引越しでも捨てられることなく生き延びてきた。何かそこに意味を見い出したくなるのも年令のせいか。

半年ほど前、加藤典洋という人の『この時代の生き方』という本を読んだ。新間の書評で知ったもの。自己中心主義の大切さとか、理解することへの抵抗などという言葉に魅かれた。そして、この本は私にとって出会うべき本だと思った。(その後、加藤氏の『敗戦後論』は言論界に一石を投じたのか新間や雑誌を賑わしている)

加藤氏の歴史の見方をきちんと理解する能力は私にはないが、その思考方法が私を捉えた。

例えば、自己中心的であるということは一般的には批判されるべき性癖と見られる。しかし次の文章に新しい展望を見い出す。『私利私欲と欲望に戦後とポスト戦後を貫ぬく一本の太い線を見る。「先ず自己中心性に徹すること」中途半端なそれは現実主義に帰結するが、徹底されればそれが……平和主義を基礎づける。戦後を抜けてしかわたし達はその先に行けない。自己中心性の回復、これが戦後を戦後以後に抜ける道であると思う。』

勝手な理解かも知れないが「自己中心性の回復」という言葉は、私の中のある呪縛を解きほぐす魔力があった。

学生時代、弁証法的なものの見方を教えこまれた私には、客観的であることが科学的で、正しいという刷り込みのようなものがある「自己チュー」はつまるところ主観主義、それは科学的ではないと。しかし、私は“自分にこだわりたい”とこの頃思う。

どこか上の方にある正義に、正義だからといって盲信するのではなく(今まで盲信していたような気がする)“矛盾だらけの自分の感覚”に徹底的にこだわってみたい。加藤氏流に言えぱ、自分にこだわって、そしてそこから自分なりに出口を見い出すこと、そういう思考の訓練が大切なのだ。

しかるべき企業や役所に職を得て、仕事を通じて社会参加することは私の若い頃には当然のことだった。それが学業を終えた若者の輝かしい第一ステップだった。

息子は公務員の職を得たけれども、就職はあくまで食べるための手段、彼の生きる目的は“山”。娘は大学院まで行きたいけれど将来的に企業に就職する気はない。フリーターで最低限稼いで、あとは自分の勉強(現代美術)をしたいと言う。

ちゃんと就職してほしいという母親の思いは、「おかあ、時代が違うんだよ」と軽くいなされてしまう。

時代は常に“進歩・発展”だけではないらしい。そんな思いも含んだ私の「自己チュー」開眼でもあった。

(江東区立深川図書館勤務)


The Chukyo University Society of English Language and Literature
Last modified: Thu Apr 30, 1998

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