カタカナのガバナンス

片山 厚



外来語のカタカナ表記については、どちらかというと否定的な意味をこめて論じられ、時には好ましからぬ社会問題となることもあるようだ。純粋な日本語を汚すものだというのがその主な理由である。ただ、その汚し方だが、いたずらに専門家を衒ったものの言い方を嫌って非難したり、原語とは異なった語義で用いているといって、その意味の不正確さを指摘する例が多い。つまり、日常の表面的な現象に対して不快感を示しているのである。しかし、レストランのグルメからヤングのファッションまで、それはそれなりの必要性があってのことだし、とりたてて不平を言う事でもないように思う。心すべきは、一般に言葉というものには、無限の意味の広がりがあって、本当の恐ろしさがそこに隠れているということである。

最近、新聞などでコーポレート・ガバナンスという言葉を目にする機会が多くなった。 「企業統治」と訳しているが、素人にとっては、またぞろ胡散臭いカタカナが現れたという印象は免れまい。この例もまたこの道の先進国から輪入した品物で、昨今のバブル筋から金融業界の破綻に至る一連の社会現象の変動によって浮上してきた専門用語だ。企業の所有者である株主は、実際上は専門の経営者を選出してその企業活動を委託するわけだが、果たして委託された経営者が忠実にその業務を遂行しているかどうかを監視する必要が生ずることになる。そういった仕組み、ないしは制度のことをコーボレート・ガバナンスと言うらしい。株主主権の形骸化とか、総会屋の存在といった現実は今では誰でも知らない者はいないし、この言葉の意味するところも判らないではない。

だが、一抹の不安な気持ちに襲われたのは、コーポレート・ガバナンスに準えたユニバーシティ・ガバナンスという言葉を見つけた時である。仮に日本語で表現すれば「大学統治」となるわけで、この言葉からは、大学のあり方に対する管理の強化、したがって規制とか抑圧の姿勢が当然のように頭を擡げてくることは間違いない。

時代の推移に伴って大学のあり方についてもそれなりに必要な手当が加えられてしかるべきである。大学というところは、教育と研究という二本の柱を金科玉条として、大抵はそのうちの一本に縋り付いて保全を図ろうとする輩の集団であるというのが、しばしば耳にする非難の声である。この状況を改善しようとすれば、当然の事ながら、何らかの規制を意識することになり、やがてそれに付随して権力の行使という事態が生ずるのは予想に難くない。教育のあり方を支配しようとすれば、時流のままに社会の必要に応じて、安易で、惰性的な日常性を重んじたものを指向することになるだろう。学生不在の独善的教育という誹りを受けて、それを改めるつもりが、実はそれ以上に教育の不在を醸し出す結果になるかもしれない。

研究とは、自由の名のもとに無益な営みを続け、なんの有用性も産み出さず、結果として無為な行状にすぎないと思う者もいるようだ。研究の促進には財政上の裏付けが不可欠なのだから、研究の成果を計量して、そのうえでそれに応じて資金を投ずべきだという改善策が提示されているが、それは本来の研究のあり方からすれば全く逆転の発想、つまり姑息な管理の姿勢に他ならない。それは世の中にとって程良く役に立ちながらも、やがて目に見えない弊害を蓄積していくことになるだろう。

勿論大学という所は、公立、私立を問わず、厳密には株式会社ではあるまいし、古色蒼然としてはいるものの、学問の自由という理念を支えとしていることを思えば、何ら動揺すべきことではないのかもしれない。

ただ、言葉の果たす役割という意味では、問題とすべき点が無いわけではない。原語では、「コーポレート」は形容詞で、「ユニバーシティ」は名詞である。この両者が「ガバナンス」を支配する微妙な違い、そして「ユニバーシティ」の場合、逆に「ガバナンス」が「ユニバーシティ」を支配しているという点については、言語学者の意見を質すまでもなかろう。「眠っている赤ん坊」と「寝台車」を比較しながら英語を学習したのもそれほど遠い昔のことではないと思う。

「ガバナンス」という言葉は、動詞「ガバーン」に由来するものだが、因みに英和辞典によると、この動詞には「支配・統治する」から「(人の言動を)左右する」等の訳語が当てられていて、日本語としては凡そ権力の行使を基盤とした意味合いで用いられる印象が強い。権能を有するものが弾圧的に支配・統制しようとすれば「ルール」という言葉があり、帝王が主権を行使して圧制を敷く際には「レイン」という単語が用意されているので、「ガバーン」にはとりあえず「(会社・企業を)運営する」といった意味を当ててもらいたいところである。「コーポレート・ガバナンス」とは、おそらく「コーポレイションのガバナンス」、つまり「コーポレイション」が自らの規範に依って、自らを律する「ガバナンス」の姿勢と考えるべきなのであろう。一方で、「ユニバーシティ・ガバナンス」を、「ユニバーシティ」を「ガバーン」しようという意味で考えるならば、否応なしに大学のあり方に対する管理と支配の強化を一義的なものとして思い浮かべることになるのである。

英国の文豪、チョーサーが活躍していた頃には、名詞の「ガバナンス」には「賢明な自己克己の精神」とか「思慮分別のある振舞い」といった意味があったという。人間の英知と神の摂理が平衡を保って遍く世に展開している状況の中でこそ、この言葉は鮮やかに使われていたのだろう。仮に十四世紀が遠い昔のことだとしても、言語が数多くの意味の変遷を辿って今日にあるのだとしても、その根底にある精神が消滅するものとは思いたくない。

社会に対する道義的責任というものを企業はどのように考えるべきなのか即断は出来ない。それに比べれば大学の存在意義はもっと簡明だと言ってもよい。しかし、この分かり易さに全てを委ねて安逸な理念で研究と教育の機構を律するのは極めて危険なことではないであろうか。

便利さと、少なからぬ尊大さと、何にもまして怠惰な心が、どこからともなく借りてきたり、また自らも作り出していくカタカナ言葉というものに、このような危倶を抱くのは滑稽なことなのかもしれない。しかし、片言隻句のそれぞれにともかく素朴に対応する姿勢こそ最も必要なことだとも思うのである。

(文学部教授)


The Chukyo University Society of English Language and Literature
Last modified: Thu Apr 30, 1998

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