あなたの宗教は何ですか

神田 和幸



街中で「あなたは神を信じますか」と話し掛けられたり、オウム真理教の事件の報道を見ると、「宗教ってなんかうさんくさい」と思うのも無理はない。現代の日本社会では日常に宗教を感じることはない。キリスト教徒のように毎日曜日に教会にいくことはないし、イスラム教徒のように日に何度もメッカを拝礼することもない。宗教との出会いは葬式と結婚式くらいで、新年の初詣出でもほとんど宗教を意識していないだろう。葬式では仏教に出会うことが圧倒的に多く、結婚式はキリスト教式が多い。こんなに宗教が入り交じっていては日本には宗教がないといわれてもしかたがない。キリスト教やユダヤ教、イスラム教のような一神教の教徒からみると信じられないことなのだが、多神教の教徒からするとそれほど不思議なことではない。しかしそういう宗教論はこの際おいておいて、文化との関わりでこの日本的現象を考えてみよう。

日本人にはまったく宗教心がないかというとそうでもなく、受験の時には神頼みに行くし、自動車にはお守りをつける。有名なお寺や神社に行くとおみくじを引いたりするし、家を建てる時には地鎮祭をする。

それでは「あなたの宗教は何ですか」と聞かれて、すぐに答えられる若者はあまりいない。多くの日本人にとって自分の家の宗教が何であるかを知るのは葬式の時である。自分の旦那寺がどこのお寺で、本山がどこにあるかなど、その時に親戚から教わることが多いのが実情である。現代の日本人の多くは自分がどの寺の壇家なのかを意識していない。死と宗教が深く関わっているのは当然なのだが、これほど宗教に無関心な国は日本くらいであろう。むしろ日本の特徴といってよい。

欧米では無宗教者というのはよく思われない。共産主義者かヒッピーの類だと思われてしまう。無宗教者イコール無神論者であり、神を信じないイコール神を怖れないという非常にアナーキーな人物であり、反社会的存在ということになってしまう。アメリカは多民族・多文化国家であるから、当然多宗教国家である。そのため宗教的共存のてだてを講じている。アメリカの建国の動機は直接的にはイギリスの植民地支配からの独立であるが、アメリカ大陸に渡った初期の移民者は宗教の自由を求めて新天地を求めたピルグリム達であった。アメリカの国是である自由と平等は「宗教の」という意味が大きいということは日本ではあまり解説されていないが、宗教はアメリカではデリケートな問題なのである。

民族というのは血統として親子が共通にもつ部分である。文化は言語や習慣を通して同一民族内に伝承されることが多い。宗教は家により伝承されていく。民族、言語、文化、宗教は互いに密接に関連をもっているが、微妙に違う。民族は個人が選択できない。言語も後天的に獲得されるとはいえ選択できない。文化も後天的に獲得されるのだが、異文化に会うまでは自文化を意識することは少ない。またどこに住むか、どういう時代に生きるかなど社会状況により変化することもある。宗教は自分が選択できるという点が異なる。改宗は可能だが、「改民族、改言語、改文化」はない。個人の意思が関与するという意昧では、支配者が被支配者を支配者の宗教に同化させようとしてもなかなかできないのが宗教でもある。また宗教のための死、殉教は例が多いが、言語や文化のための殉死はまず例がない。

これほど大事な宗教であるから、お互いの宗教については話題に触れないようにし、宗教的対立を産まないようにするのが共生の知恵である。私がそのことに気付いたのはカリフォルニア州ロスアンジェルスのリトルトウキョウであった。リトルトウキョウの隅というか、あまり観光客の出入りしない地域で、古い店が並んでいる一角がある。ここの部分が元々のリトルトウキョウで、浅草とか大須のようないわば下町のようなところである。リトルトウキョウはここから次第に広がりつつ発展してきたのである。しかしこのあたりは治安がよくないとされており、観光ガイドブックなどには昼間でもあまり近づかない方がよいなどと書いてあるから観光客はまず立ち寄らない。その危ない地域と今のリトルトウキョウの境目あたりに東本願寺がある。東本願寺があるから西本願寺もあるかというとそうではない。現在のリトルトウキョウの中心からユニオン駅の方へ歩いていくと日系人博物館がある。ここは92年にオープンしたが、その前は西本願寺であった。私の記憶では相撲矢倉のような建物があった。ここが昔の日系人の重要な社交場であったという。寺が博物館になるというのも妙な話ではある。私にはアメリカに日本の寺があるのも驚きだったが、寺が社交場というのも理解できなかった。しかしそれ以降よく注意していると日本仏教会という建物に各地で出会うようになった。しかし仏教というのは、例えば禅宗とか、浄土真宗のように広く呼ぶか、細かく曹洞宗とか臨済宗と呼ぶか、東本願寺のように寺号で呼ぶかであるが、日本仏教会という宗派はない。不思議に思って、ロスアンジェルス郊外のパノラマシティという街に行った時偶然みつけた日本仏教会に寄ってみた。そしてその名前の由来をきいてみた。そこの人達は全部日系アメリカ人で日本語が辛うじて話せる2世が少しとほとんど日本語が話せない3世と4世であった。英語でインタビューした結果、そこの仏教会は特定の宗派に所属しないで、毎週日曜日に集るだけのコミュニティセンターであるということだった。なぜそうするかというと、日曜日にはほとんどの人が教会へ行くのに日本人(日系人)だけが行かないのは、日本人が宗教心のない民族と思われ、社会的信用がなくなる。したがって日曜日に集る場所が必要になり作ったということだった。それで日本仏教会という中立的な名前がついているのだった。そこの人達の話ではよそでも似たような事情で、違った名前がついていても同じなのだそうである。そういう形式的なことが嫌いな人はキリスト教徒になるか、日本人会から離れるかである。これで西本願寺が博物館になった謎も寺が社交場であった謎も解けた。

宗教とは本来、人の心の問題である。しかし社会によっては生活であり、信条でもある。日本人はそこのところをよく理解しておかないと外国でうまく理解されないこともある。本来会話の話題として宗教のことはタブーなのだが、私は社会調査の意味もあってある程度心が通じている人には、その人の民族的背景や宗教も尋ねてみることにしている。日本では「あなたの宗教は何ですか」という質問をされると答えに困るのだが、その質問の意味がよくわからないと答えた人が多かった国が他にもあった。デンマクである。デンマークは国民の97%がルーテル派のキリスト教徒で、教会は国家予算で運営されていると聞かされた時は正直驚いた。国家と宗教の関係は私達が想像しているのとかなり違っているようである。私は宗教と国家が結びついているのはイスラム教圏だけだと思っていた。

日本では第二次大戦以降、宗教と国家が結びつくのはタブーとなった。戦前の神道と天皇と国家の関係への反動である。それでも靖国神社への閣僚の参拝とか、伊勢神宮への参拝とか、自治体の地鎮祭とか、宗教行事と政治との関わりはなくなっていない。ちなみにアメリカ大統領の宣誓にはその大統領の宗教の僧侶が関与する。したがってアメリカも宗教と政治は無関係ではない。司法現場でも聖書への宣誓が行われる。日本では宗教は政治、教育、司法に関与しないことがよいとされているが、実際には宗教団体をバックとする政治団体や宗教法人による教育機関は多い。一方、法廷での宣誓は神に対してではないから嘘をつくことは法律に違反しても神への冒涜ではないから平然と嘘をつく無法者もいる。

宗教は本当は日常にも深く関与しているのだが、日本人の多くはそれを意識していないことが問題である。しかし現代のように不安なことが多く、人間の手に負えないことが多い社会ではどうしても宗教が必要になる。いわゆる魂の救済が必要なのである。しかし普段通っている教会もお寺もないから相談する聖職者もいない。悪いことをしても許しを願う対象もない。魂が救済されない状態が続くから心が不安定になり暴力化したり、人をいじめたりするようになる。さもなくばあやしげな新興宗教に巧される。救いどころがどこにもないのが現状である。

私は宗教家ではないから、各人が宗教をもてというのではない。ただ日本でも日常生活に宗教的要素があり、宗教と日常は不可分であるといいたいだけだ。そして世界の多くは宗教的生活が日常と考える人々だということだ。「あなたの宗教は何ですか」と質問されて答えが出せるように、一度よく考えてみてほしい。

(教養部教授)

The Chukyo University Society of English Language and Literature
Last modified: Thu Apr 30, 1998

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