後藤 勇治
ぬけるような青空のもとアナトリア高原(トルコ中部)の一直線に伸びるアジアハイウェーA1を、ひたすらインドにむけて自転車のペダルを踏み続けていた。午前6時30分、安宿で軽い朝食をすませ、走りはじめて4時間が経過した。体も十分に温まり、中近東の涼しい風が吹くなか走っていると思わず「夢描いたことを今まさに実現しているんだ」という胸がふるえるような感動を覚えた。
自転車の旅はいつも楽しいものではなかった。トルコ、イラン、アフガニスタン、パキスタンと自転車で旅を続けると、通過する村々で好ましくない歓迎を受けることがある。道路脇で遊んでいる村人や子供たちがこちらが自転車旅行者だと分かるといっせいに道に向かって走りだし、待ち構えて止まるように合図を送る。こちらは無視をして瞬間時速50キロで走り去ろうとすると、村人たちが道路脇の小石を拾ってビュンビュン投げてくる。これが毎日来る日も来る日も続くと中近東の国々のことが嫌になって行く。
私は10数年前に自転車で4年間かけて世界一周をした。旅の途中よく外国人から「なぜ自転車で旅をしているんだ」という質問を受けた。そんなとき、「自転車で世界一周することが僕の夢だからだ」と答えていた。高校時代、担任の先生から「私の夢」という作文を書くように課題を出された。そこで、私は自転車で世界一周をする自分の夢を書いた。ロッキー山脈を自分の力で進む自転車で旅ができたらどんなに素晴しいのだろう。中近東の国々を自転車で走り、さまざまな文化に触れることができたらさぞ面白いだろうと夢を綴った。
高校を卒業し文学部英文科へ入学した。大学では新聞配達のアルバイトをしながら金をためて、大学3年のとき、1年間休学をして日本一周の自転車の旅に出た。北は北海道、宗谷岬から、四国、九川、沖縄県まで走破した。箱根峠も自転車で3度越えた。今思うとかなり自転車旅行に熱中していたことが分かる。日本一周を終えて帰宅したとき、ほんのすこしの満足感とつぎは世界一周だという、目標が心のなかに芽生えてきた。
会社勤めをしていくなかで世界一周の夢は、ますます大きくなっていった。世界一周旅行に出るために貯金を始めたり英会話の勉強など準備をした。また訪れる国々の大使館や領事館に手紙を書きビザの要、不要など最新情報を取り寄せた。また、訪問する予定の国の様子を知るため、風俗習慣など文化や地理気候、道路情報などできるだけ詳しい情報を集めた。
旅行記や紀行文も何十冊と読んだ。その中で最も印象に残っているのは東京経済大学教授色川大吉氏の「ユーラシア大陸思索行」だ。私が計画している経路と色川氏が通過したルートが極めて似ているので何度も読み返した。あまりにも感動動をしたので著者にお手紙を差し上げ、励ましの返事まで頂いた。色川先生の手紙の最後に「健闘を祈る」と結んでありその言葉を読んだとき、迷いは消え出発の決意ができたのを覚えている。198l年10月、友人に送られ成田空港から初めての訪問国フランスへと旅立った。以下旅の途中に綴った旅日記の一部を紹介する。
1982年4月15日(木) テムコ、チリ
サンチアゴから300キロ南のテムコという町で野営をするためにテントを張る準備をしていた。すると三人の若者がやってきてサンチアゴまでの道路状況や気候など親切に教えてくれる。別れ際にサンチアゴに行くのならば、テレビ局のキャスターが友人にいるから訪ねて行くといいと名前と住所を書いたメモを渡してくれる。紹介されたキャスターに会い事情を説明すると、私の旅行に大変に興味を持ちテレビに出演することになった。
テレビ番組はお昼のワイドショーでスタジオには200人ほどの観客がおり、ゲストと司会者がエピソードや近況を語り合うトークショーであった。ディレクターと打ち合わせを終え出番を待った。テーマソングが流され司会者が「今日は大変に珍しいゲストをお迎えしています。世界一周自転車旅行をしている日本人旅行者、後藤勇治さんです。どうぞ」と紹介してくれる。司会者は英語で旅行の目的や印象などを質問があり英語で答えていた。つぎにスペイン語が話せますかと話題が変わり、少しなら話せますと返事をした。スペイン語圏のメキシコに入国したときは、ほとんどスペイン語を話すことはできなかった。しかし、毎日旅先で出会う地元住民と会話を交わすうちに少しづつ話ができるようになっていた。司会者はスペイン語でチリはどんな印象を持ちましたかと質問す。少しお世辞を込めて「今までに30以上の国を訪れましたが、チリが一番親切で景色もきれいで大好きになりました」と答えた。すると観客がワット大きな声を上げ大喜びをする。私は「アレ、道々聞いて覚えたスペイン語でも通じるんだ」と自分ながら驚いた。つぎに最も印象に残った国はどこですか?と尋ねるのでスペイン語が通じたことに気をよくした私は「チリは南米でも最も美人が多く、食べ物も美昧しいものが沢山ありすばらしい国です」と返事をすると、観客はわれんばかりの歓声とともに大きな拍手を送ってくれた。こうしたことがありチリやスペイン語がますます好きになり南米のチリには是非もう一度。
1983年8月25日(金) ブリッティッシユコロンビア、カナダ
カナダ国境の街、バンクーバーを出て1ケ月、アラスカに近づいてきた。アンカレッジには雪が降り出す10月初旬には着きたいと思いひたすら走っていた。深い森の中では時折キャンピングカーとすれ違うくらいで人影はあまり見かけなくなった。
深夜テントの中で天気予報を聞いていると、ブリティシュコロンビア州プリンスジョージのジョンソンさんの家で馬が2頭オオカミにかみ殺されたと報道している。そのプリンスジョージを地図で調べると3日後に通る付近の村だとわかり通るのが恐くなる。
1983年9月12日(月)ユーコンテリトリー、カナダ
美しい紅葉を眺めながらアンカレッジに向かって走っていた。9月のアラスカの天候は非常に変わりやすく、朝方は小春日和の温かい日差しでも、午後には急に雨が降り出すとても不安定なものだ。日没までには目的地に着こうと頑張っていたが、突然雨雲が空を覆い小雨が降り始めた。雨宿りする場所などなく先を急いでいると、幸い民家があり家の軒先を借りて雨がやむのを待っていた。すると家の中から小学生になる少年が出てきて家で休憩してくださいと中に招き入れてくれる。
しばらくすると、少年のお母さんが仕事から帰ってきた。事情を説明すると天気が好くなるまでゆっくりしてくださいと熱い熱いやけどしそうなコーヒーでもてなしてくれる。結局その日は雨がしとしと降り続き、その家に泊めていただくことになった。夜にはご主人のスミスさんが出張先から帰宅され6人で食事をすることになった。食事をしている時に気がついたが1人の女の子と、2人の男の子がいるが、それぞれみんな肌の色が違うようだ。スミス夫人は白人だがご主人は有色人種だ。食事を終えたあと薪ストーブにあたりながら旅行中の体験や出会った人たちのことを地図を見せながら話をした。するとスミス夫人は学生時代のことや政治のこと、3人の子供の肌の色がなぜ違うのかなど陽気に話してくれた。彼女が言うには自分の墓碑銘に「スミス夫人はエドワード・スミス氏のよき妻であり、朝から晩まで炊事、洗濯に精を出し慎み深い人生を送りました」などと書いてもらうことは望んでいないとカラカラ笑う。家の中を見ると壁の額縁は傾いたままだし、流し台の中には残飯とともに汚れた皿がうず高く積み重ねてある。
陽気な歓談のあと、久しぶりに温かい毛布にくるまり床についた。どこの馬の骨とも知れない自転車旅行者をあたかも10年来の親友を歓迎するようにもてなしてくれるスミスさん一家の心温まるもてなしに胸が熱くなった。
1983年10月24日(土)ドーソン、アラスカ
走行距離も42,000キロを越えた。目的地のアンカレッジまで順調に行けば7日で着けるところまで来た。日没が早いので出来るだけ早めにキャンプできそうな場所を見付けテントを張った。自分で料理した食事を食ベテントのなかでローソクの明かりを頼りに日記を付ける。明日行く目的地までの道のりを地図で確かめ9時に眠った。しかし、突然カランカランという食器が転がる音で目を覚ました。一瞬「熊だ!」と頭がよぎりがばっと身を起こした。耳をそば立てると食器に残っている食べ物をなめているのが分かる。フガフガと食べ物を漁っている気配がする。頭の中は様々な想いが駆けめぐり、心臓が口から飛び出るくらいに高鳴る。テントの中なので逃げ出すわけにも行かず、身体は全身凍り付き身動き出来なくなってしまった。
しばらくすると、獣の気配もなくなり緊張感が一気に消えると深い眠りにつき朝までぐっすりと寝込んでしまった。翌日カナディアンインディアンに昨夜の出来事を話すと「それは大きな熊に違いない」という人もいれば、「大きな鹿のムースだ」という人がいた。それ以降何度か熊を見かけたが無事アンカレッジに着くことが出来た。
大いなる希望を抱いて冒険旅行に旅立ってすでに10年以上が経過する。旅を終えて、今でもなつかしく思い出すことはパリのシャンゼリーゼ通りや、サンフランシスコの金門橋を自転車で走ったことよりも、世界中で出会った親切な人々のことだ。ボリビアの農村で野営をしようとテントを張っていたら、「この付近は夜物騒だから、私の家に来なさい」と自宅に招いてくれ温かいスープをご馳走してくれたボリビアの農夫。アルゼンチン南端の強風が吹き荒れるパンパを横風を避けながら走っていたら、夜は冷え込むからとつぎの街まで自転車ごと乗せてくれたアルゼンチン人のトラック運転手など心やさしい人たちのことが思い出される。国際理解、親善というと外国人に浴衣を着せて一緒に盆踊りを踊ったり、家に招待し寿司や刺身をご馳走することが国際親善であるかのように考えがちだ。確かにそうしたことも国際理解の一面ではあるとは思う。しかし、それだけが本当の国際理解、親善なのだろうか。私たち人間は生まれ育ったところの風習を最も合理的で一番最高の文化だと思う傾向がある。私は自転車旅行で40カ国以上の国を訪れさまざまな人々と出会った。それぞれの国にはそれぞれの文化があり生活があるのを見てきた。そして私たちにとって今一番大切なことは外国のことを正しく理解することだと思う。
現在、私は愛知県の私立学校で英語を教えているが、教科書だけの授業ではつい退屈になりがちなので、異文化理解の必要性を感じ生徒たちに旅行の体験談をすることがある。世界中でお世話になった人々にたいするお礼の意味も込めて、外国を理解するためにも旅の体験談を話している。そして、話を聞いた生徒の中から一人でも多く大きな夢を抱いて世界に羽ばたいてくれる生徒がいればと願っている。下記はホームページのアドレスとインターネット及びニフティーサーブの電子メールのアドレスです。
Niftyserve ID:NBHO3326
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Internet www.Tcp-ip.or.jp/~amigo55/