庭をたずねて

小田原謡子 (教養部教授)



この夏のたびは、イギリスにはじまり、スペイン、イタリアの「庭」を訪ねる旅 であったが、それは同時に、「脚がお腹を支えているのではない。お腹が脚を支 えているのだ」というセルバンテスの名言(?)を実感する旅であり、また、ど こへいっても英語が通じるわけではなく、英語がすべてを解決するわけではない が、「英語をしゃべれば何か反応がある」ことを実感したたびでもあった。
なぜ「庭」かというと、「異文化理解コース」なるコース研究で、私のテーマは 「庭に見るイギリス文化」だから、以前みたことのある庭も含め、さまざまな庭 を、今度はもう少し意識的に見ようと思ったためである。イギリスの庭がどんな ものか知らなかったころ、サマースクールのエクスカーション等で訪れたキャッ スル・ハワードやチャッツワース、あるいはもっと南に下ってリーズ城といった ところでは、こちらがそういうものを求めて行ったわけではなく、イギリス人を 知る人が機会を与えてくれたものであったが、庭の様式など知らず、ただただ広 いこと、緑の美しいことに圧倒されるばかりだったのだ。

イギリスでは、ベッドフォード・プレイスの庭を歩き、ハンプトン・・コートを 再訪し、ウィルトン・ハウス、ケンブリッジ、ブレニム・パレス、友人の連れて 行ってくれたベス・チャトウの庭、ストウ・ランドスケイプ・ガーデン等、ケイ パビリティ・(ランスロット)ブラウンや、ブリッジマン、ケントなど、庭園史 上名高い造園家が造園に携わった庭も含めて、いくつかの庭を歩いた。
ハンプトン・コート・パレスの有名な迷路は、大人の背丈よりもかなり高い生け 垣をめぐらした、曲がりくねった小道である中心に至るのは簡単だが、さて出よ うとすると、そう簡単にはいかない。まさしく「迷路」の名の通り、いくつもの わかれ道に迷わされ、出口に向かっているつもりでいると、いつのまにかもとの 所に戻っていたりする。それを何度か繰り返し、私は自分が外に向かっているの か中に入っているのかわからなくなり、向こうからやってきた二人連れに、中に 入って行くのか、外に出るところなのかとたずねると、「私たちはさまよってい るのよ」という返事が返ってきた。歩いている本人も、自分がどっちへ向かって いるのかわからないのが迷路名のだ。雨が降ってきて、だんだんあたりが暗くなっ てくる。出口にはなかなかたどり着けない。生け垣を隔てた向こう側の小道を通 る人の足音が聞こえる。私の後から誰かがひたひたと歩く足音が聞こえる....。 私は恐くなった。誰が私を追うはずもないのだが、いつまでも出口にたどり着け ないまま、足音だけが聞こえてくるうちに、誰かに後をつけられているような気 がして不安になったのだ。昔読んだお話の中に、主人公が迷路をさまよい、あと をつけてくる足音に怯えて駆け出すシーンがあったように思う。あのお話の迷路 とはこういうものだったのか。

先頃オースティンの『センス・アンド・センシビリティ』の映画化の際、ロケに 使われたウィルトン・ハウスで、イニゴー・ジョーンズのデザインによる部屋と、 そしてもちろんすばらしいであろうお庭を見ようと行ってみたら、ここのテュー ダー・キッチンでは、尼僧の幽霊さえ出た。テューダー朝を再現した台所を見て いると、背後でドアの蝶番のきしむ音が聞こえ、振り向くと、ドアが開き黒っぽ い人影がボーッと現れ、そしてドアが閉まった。何だろうと思いながら台所を見 ていると、またギィーという音がして、人影が現れて消えた。何しろ暗いし、す ぐドアが閉まるので、姿形もさだかでない。後で上の階の出口近くにいたこのお 邸に働く人に、「あれは何ですか」と尋ねると、「あれは幽霊です」と真面目く さった顔で答えた。こちらもまじめな顔で「幽霊?こちらの住人なのですか?」 と聞くと「そうです」と再び真面目くさって答える。「このお家をご覧になる前 に、映画をご覧になったでしょう?(訪問者は家の中を見せてもらう前に、この 家の歴史を紹介するヴィデオを観るよう勧められるのだ)彼女はあの映画に出て きますよ」ということなので、もう一度ヴィデオを観せてもらった。尼僧がナレー ターとして現われ、尼僧院ヘンリー八世が僧院解体で取り上げて初代ペンブルッ ク伯に下げ渡したというこの邸の歴史を語る。「私の僧院」という言葉を尼僧が 口にした時、私はテューダー・キッチンで見たのはこの尼僧の幽霊であったこと を理解した。

イギリスからスペインはマドリッドにとんだ空港に迎えに来てくれた弟の車で市 内に向かう途中、あたりの風景にまず驚いた。イギリスの色を緑とすれば、マド リッドの色は黄ばんだ茶色だったからだ。どこへ行っても木々の緑、芝生の緑、 牧場の緑の広がる風景に慣れた目には、どころどころにある、ひ弱そうな細く低 い木の緑、緑といっても葉の緑だけ、木々の根元はすぐに見事なほど乾いた黄土 色の地面、草はなく、たまにあってもほとんど枯葉色という風景は、いささかショッ キングだった。
弟の住むマンションは、あたり一帯芝生や木立に囲まれているのだが、すくすく 育った木という風情ではなくどこか遠慮がちに大きくなった木のようだった。気 がつくと、カタカタと散水器の回る音がする。毎日、人工的に水をもらって育っ ている木であり、緑を保っている芝生なのだ。スペインの夏の夜は10時頃まで明 るい。照りつける太陽、乾いた空気の中で、水をもらえなければ、たちまち枯れ てしまうであろうことは明白だった。これは街路樹や公園の木々についても同じ ことで、観光に力を入れているお国柄からか、人々の目を楽しませる街路樹や公 園の緑はあるじゃないかと思えば、これは毎日水をやることを仕事とする人がい るからこそなのだと聞かされた。

マドリッドからバルセロナまで海岸線を通る汽車で行くと、バルセロナに近づく につれて緑が多くなった。気候が違うのだろう。
バルセロナではゴシック地区の宿に泊まり、大聖堂やサグラダ・ファミリアを見、 バルセロナからフィレンツェまで汽車で行くつもりでいたが、駅のインフォメー ションで汽車の時間を聞いたところ、バルセロナを夕方発って、フィレンツェに 着くのは翌日の夕方6時近くだという。あまりに時間がかかりすぎ、おまけに寝 台車だ。体が耐えられるかと心配になり、飛行機でローマに行くことにした。ト ラベル・エージェントで飛行機とローマの宿を予約して、伝統的なスペインの庭 を教えてもらい、カチッとしたスペイン階段のモニュメントと噴水のある公園を 歩き、一時間でローマに着いた。荷物を乗せたカートを押して空港のロビーに出 ると、一人のタクシー運転手が近づいてきて、「ホテルはどこですか、タクシー はいかがですか」と言った。これがことの始まりだった。
「ホテルは○○だけど、エアバスで行きます」というと、「エアバスなどない。 タクシーしかない」と言う。「そんなバカな!どこの都市にだってエアバスはあ るはず」と言うと、「それなら確かめるといい」と言って、私をタクシーの表示 のあるカウンターへ連れて行った。そこに(といっても、カウンターの中ではな く外に)いた男の人が、隅の棚からローマの絵地図を手に取って見せながら、 「あなたのホテルはここで、とても遠い」と言い、隣のカウンターの(やはり中 にではなく外にいた)恰幅のいい紳士風の人のところへごく自然な形で私を連れ て行き、「この人のホテルはここだそうだ」と言った。するとその紳士風は、そ れはいかんという風に鷹揚に首を振って、「そこへ行くには15万リラだ」と言う。 わからないながらも額の大きさに驚くと、「これを見なさい」とカウンターにあっ た値段表を示し、「そのホテルはテルミナ駅からも遠いから、どこへ行くにもタ クシーだ」と言う。
私は着いたばかりで自分の置かれた状況が分らず、まったく無防備だった。リラ が円でいくら、ポンドでいくらということを知らず、イギリスでやるように、駅 の両替でリラに替えて、エアバスで市内に行こうとのんびりしていたのだ。イギ リスでは普通こちらから尋ねない限り人は干渉しないし、時に客引きがあっても しつこくない。けっこうだと言うとあっさり引き下がる。それに慣れていた私は、 イタリアのその人たちの「無知なあまり、おそろしく損なことをしているんだな、 かわいそうに」という印象を与えるやり方にとまどってしまい、バルセロナで飛 行機の切符を手配してもらった時に「スペインの伝統的な庭を見たい」と言った ことから、それまでの客対店員という態度を変えて親身になってあれこれ教えて くれたトラベル・エージェントのきれいな英語を話す女性がせっかく予約してく れた宿を取り消したいとは思わなかったが、あまりの数字の大きさと、「毎日ど こへ行くにもタクシーだ」という言葉にも動かされた。その様子を見ていた紳士 風はやおら携帯電話を取り出して件のホテルに電話し、イタリア語で何やら話し、 「予約は取り消してもかまわないと言っている。自分で話すといい」と言うので、 「一度決めたことを変えたくないのですが、ここにいる人たちがお宅のホテルは とても遠いと言うんです。お宅はテルミナ駅からも遠いのですか」と聞いた。 「そんなことはありません」という返事を期待していたのだ。それならまわりに いる人たちにきっぱり断れるから。ところが「とても遠いんです」という答えが 返ってきた。

こうして私は紳士風の勧めるホテルにタクシーで行くことになった。タクシーの 乗り心地はなかなかよかった。運転手はあたりの退跡や建物を、これが何、あれ が何と説明してくれ、庭を見たいのだと言うと、少し考えてから「小さな庭だが ここがいい」と、庭の名前を教えてくれた。ホテルに着き、「料金がいくら、チ ップをこれだけもらっていいか?高いと思うか?あわせていくらだが」と金額を 告げられ、私は頭がクラクラした。それは空港で、予約していたホテルに行くの にかかると聞いた金額とそう変わらなかったからだ。あちらがとても高いからこ ちらにしたのではなかったのか!ボーッとしている私を見て運転手は、イタリア に来たぱかりで金の勘定ができないのかとでも言いたげに、私の手にした両替し たばかりのリラ札を数えて取り、さっさと車から降りてトランクから私の荷物の ところに行き、その時はじめて車の後部についているマークから、それがベンツ だということに気がついた。私はベンツに乗っていたのか!運転手は荷物をフロ ントまで運ぶと、フロント係と何か話し、私に「庭を見に行くのにタクシーが必 要なら呼んでくれと言っておいたから」と言って出て行った。

部屋に入って荷物を開き、やや落ち着くと、空港からここまでの一連の出来事が よみがえってきて、どう考えても私はカモにされたのだ、しょっていたネギを取 られたのだという思いがこみあげてきた。思えばスペインで、車まで連れて行っ てもらったトレドで私が買い物をするのを見ていた弟が、あんなにゆっくりお札 を数える人など見たことがないと言う。どうぞ盗って下さいと言っているような ものだと怒り、「そんなに無防備ではいけない。だいたい女性、先生、一人旅と 言うのが、被害に遭いやすい筆頭だ。姉さんの場合は三拍子そろっているでは ないか」と、ここぞとばかにり訓戒を垂れるのである。私は「そんなことはない。 日本やイギリスではこれでやってきたんだし、この前だって、後から、「エクス キューズ・ミー!エクスキューズ・ミー!」と呼ぶ人がいるので、何だろうと思っ たら、自転車の荷台に載せていたバッグが押えのバネがはずれて落ちたことに気 がつかないでえたのを教えてくれた」と言うと、「今までそれでやってこれた のが不思議だ」と譲らない。「ピレネー山脈を越えたらホッとしそれまでの緊張 がゆるんでパスボートを盗られました」と駆け込んでる人を見て、「日本人はど うしてこうだまされやすいのか」と思うのだうである。「盗られました」と駆け 込む人はあっても、「盗られませんでた」と駆け込む人はないのだから、駆け込 む人ぱかりを見ていればそう思うだろうとは思ったが口には出さず、「アイルラ ンドに行った時も、ルフサーヴィスの店で、荷物を席に置いて料理を取りに行っ て帰ってきら、隣のテーブルの尼さんが、「あなた、荷物から離れてはいけませ ん。あぶないから見ててあげました」と言って立ち去ったし、トイレに行って、 トイレの床が汚れていたのでドアの外に荷物を置いて入ったところ、出てると、 「あぶないから見ててあげました」と言ってくれた女性がいた。世の中には善意 の人がいるのだから、そうむやみに悪人ばかりがはびこると思うものではない」 と、私は諭さんばかりに体験を話したのである。とはいえ、用心するにこしたこ とはない。私は、騙されやすい日本人の筆頭として、したこともないお金とパス ポート入れの腹巻を無理やり貸しもらうことになり、ハンドバッグを入れて肩か らかけた袋の紐を、しっり握りしめて旅をしたため、左手の親指を痛めているこ とに帰国してか気がつく始末)にもかかわらず、ローマに着いて、着いた、着い たと開的な気分になって、老練な客引きと抜けめないタクシー運転手にころりし てやられたとは、何たる失態!その晩はよく眠れず、翌朝、朝食後フロントに行 って、昨夜の恰幅のいフロント係と交替していた痩せぎすフロント係に空港から の経緯を話し、、運転手の求めた金額はキャンセルしたホテルに行くのにかかる と言わた金額とそう変わらないと言うと、「それは高い。ここまでなら幾らだ」 とかなり安い金額を言う。「それにそのホテルはうちと同じくらいの遠さだ」と も言い、そして「いいか、私以外は信用するな」と力強く言った。するとこの人 はあの紳士風の一味ではないのか、信用できるのかと思ったが、一度生じた疑念 はそう簡単には消えない。「騙された!」とわめく被害者を信用させて、もう一 度騙すマフィア(?)の手口か!と私の猜疑心は私に言う。疑い始めるときりが ない。空港で私が電話で話したと思った 予約していたホテルのフロント係は、本当にフロント係だったのか、実はあの紳 士風の仲間だったのではないかとさえ思い、それをたしかめるためホテルに何度 か電話してみたが、いずれも話し中で(そのうちどうでもよくなってやめた)、 掃除のメイドさえ、私の留守中に荷物の中に金目のものをさぐっているような気 がした。
こんな猜疑地獄から私を救ってくれたのはバチカンだった。バジリカと20数年前 に訪れた時には閉まっていて入れなかった博物館とシスティナ礼拝堂で、ヨーロッ パ最高水準の建築と芸術に接して私の気持ちは高揚し、それまでとらわれていた 暗い気持から逃れることが出来た。それで、これがバチカン博物館、システィナ 礼拝堂の芸術と思っていたものは、その中のほんの一部にすぎないことを知った。 システィナ礼拝堂は、図面の上ではバジリカのすぐ傍にあるのに、すぐには入れ ない。ずっと遠くの入り口から入って博物館を見て、おそろしく長い廊下を通っ て、最後にたどり着くのがシスティナ礼拝堂なのだ。多くの芸術家がその完成に 携わり、たくさんの作品が壁や天井を飾っている。ミケランジェロ、ダ・ヴィン チ、ラファエロよりもほんのわずか劣ったために、名がそれほど知られていない 芸術家の作品なのだろう。その事実の持つ残酷さに痛みを感じ、しかし何故知ら れていないかもわかるような気がした。ともあれここは芸術の殿堂だと思い、長 い廊下の天井を見ながら、近くの売店でカタログを買おうとしたところ、システ ィナ礼拝堂や高名な芸術家の作品カタログはあっても、天井画までを収録したも のはなかなかない。「この天井画は載っていますか?」とわざわざ尋ねて分厚い カタログをもらうと、売店のおじさんは「ご親切に」と言った。

ローマの宿の部屋は、小さいけれども設備はよく、ちょうどは立派だった。ベッ ドヘッドとタンスの扉には彫刻が施され、ガラスの台つきの書き物机は獣足で、 やはり獣足のサイドテーブルがあり、優雅な金の縁の鏡が壁にかかっていた。ブ ルーのタイル張りのバスルームはきれいだし、シャワーのためには半透明の囲い があった。
帰国して、ショックさめやらぬ私は、数人にローマでの体験を話した。話すこと でショックを和らげる心理療法を自分に施していたらしい。友人ひどい目に遭っ たという顔をする私に、「あなたの乗ったタクシーは快適ではなかったか」と言 った。普通のタクシーではない、特別快適なタクシ一に乗ったのだから、高くて も仕方がないではないかというニュアンスである。今、何カ月か経った後でふり かえってみれば、その時の私に、ベンツに乗れぱお金はかかるものだろうし、強 引な客引きも人の生業だと、手をもって受けとめることが出来たなら、部屋のぜ いたくな調度を楽しみ、ローマにある庭を楽しむことが出来ただろう。しかし、 ふだん、騙す騙さないの、ぽるのぽらないのということとはついぞ無縁の生活を 送っていたのが、利害の駆け引きの真っ只中に飛び込んでしまったものだから、 一連の事柄がえらくショッキングに感じられたのだ。おまけに旅の終り、ふとこ ろのトラベラーズ・チェックも残り少ないとあっては、ショックもよけい大きく 感じられたのだろう。
こんなことがあって、ろくに何も見ないまま、そこそこにローマを発って次なる フィレンッェに向うことにした。出発するというと、痩せぎすフロントは、「フ ィレンツェへはたくさんの人が行く。汽車で食物や飲み物を差し出されても、も らって食べてはいけない。眠り薬やもっと悪いものが入っているかも知れないか らと教えてくれた。旅行者に一服盛って金品を奪う輩がいるのだと、弟が言っ ていたようなことを言う。日本で出版された旅行会話集には、「車中で飲み物な どをすすめられても、にっこり笑って断るのがエチケット」だと書いてあった。 それを現地の人の言葉で説明するとこうなるのか。えらくニユアンスが違うでは ないか!いや…。

ローマからフィレンツェに向かう汽車の窓には、イギリスのような緑が広がって いた。はたけの境界を示す木々の緑は、少しシルバーがかったものもあれば、はっ きりした緑のものもあった。オリーブ畑もあったが、オリーブの木の下は、スペ インのそれが茶色の地面であるのに対し、イタリアでは緑の草地だった。
フィレンツェでは安心出来るところが一番と思い、駅のインフォーメーションで バス、トイレつきの安いホテルを紹介してもらったが、便利さ、快適さ、正確な 情報は宿代に含まれているのだとあらためて感じさせられた。それまでのバルセ ロナやローマの宿のフロントでは英語が通じた。ここでは、通じる人と通じない 人がいた。着いた夜のフロント係は、片言の英語しか出来ないおばさんで、部屋 に案内されてみると、インフォーメーョンで宿の申し込み用紙に、わざわざシャ ワーを消してバスを大きく丸、囲んだにもかかわらず、シヤワーしかなかった。 これはバスではなくシャワ一だと私が言うと、おばさん、そこだけは私の言って いることが本能的わかったらしく、シャワーのある一郭を指差して、「ディス イズ バス!ディス イズ バス!」と言うのだ。あとはイタリア語だからわかな いが、とにかく「ディス イズ バス!」を一歩も譲らないことだけ、十二分に伝 わってきた。「うちにはバスの設備がなくてすみません」という日本人的発想は みじんもない。私をはったとにらみすえ、「ディス イズ バス!」を繰り返すの である。また宿を探して移動するのは面倒だっので、シャワーがあればまあいい やと、そのままそこにとまることにしが、バスルームには仕切りどころかカーテ ンもなく、シャワーを浴びればトイレその他は水びたし。郵便局で小包みを送ろ うと思って、はじめの夜のおばさんよりもう少し語の話せるフロントの女性に、 土曜日も郵便局は開いているかと尋ねると、開いているとうけあうので、雨の中、 荷物をカートに載せて行ってみと閉まっていた。また雨の中を帰ってきて、旗が 立ったので、フロントが正確な情報をくれなくては困ると苦情を言った。その せいかどうか、その晩フロントには、わりあいきれいな英語を話す男性がすわ った。この人の情報は正確だった。やはり、ある程度、出すものを出さないと 快適さ、正確な情報は得られないと思った。

ピッティ宮のボボリ・ガーデンやサン・ロレンゾ教会でメディチ家の栄光を垣 間見て、残り少なくなった旅のしめくくりにロンドン行きの飛行機に乗るべく 、ヴェニスに向った。他の場所で予定以上の日数を過ごしたため、ヴェニスを ゆっくり味わうのは又の機会に譲ることにして、ヴェネツィア・グラスだけを 今回のヴェニス体験とし、空港に向った。ヴェニスを旅したどなたかが、「ホ テルでタクシーを呼んでくれと言ったら、ボートが来た」と話しておられたこ とが、現地で理解できた。重い荷物があるから、船で駅まで行ってそこから空 港行きのバスにのるようにと教えられ、駅まで行ったらバスが出た後。時間節 約のためタクシーで行くことにして、タクシー乗り場はと聞いて連れて行かれ たのがボートの船着場。いくら何でも空港までボートで行くわけにはいかない。 あらためて車のタクシー乗り場に行き、空港までやってくれと言った。ただ困 ったことに、リラの持ちあわせが少ない。空港までいくらと聞くと、かろうじ て財布の中にある金額だった。空港に着いた時、車のメーターは、はじめに運 転手の言った金額より少し多い金額を示していた。運転手は、「はじめにこれ だけと言ったからそれだけもらえぱいい」と言う。私はこういう運転手に会う と嬉しくなる。この人はきれいな英語を話した。財布の中の残りのリラをかき あつめ、チップも含めてメーターの示す以上に渡した。

私はイタリアの庭について云々出来るほど多くの庭を見てはいない。短い旅の 間に、ローマのヴィッラ・ファルネーゼ、フィレンツェはピッティ宮のボボリ ・ガーデン等、ほんの一部の庭と、すばらしいとしか言いようのない芸術、建 築と、古代の遺二跡を残すイタリアの景色を見ただけである。しかし、イタリ アの景色を見て、ボボリ・ガーデンを歩き、神話の神々を題材に彫刻を施した 噴水(庭園のみならず、市中のここかしこに、端正な、あるいはバロック風に 身をよじらせた神々と人間の彫刻を配した噴水を見た)、彫像、刈り込み、ア ンフィシアター等を目にした時、イギリスの庭園、とりわけ風形式庭園の原型 となったもの、そしてスベインのあの建築家にヒントを与えたかも知れないも のはここにあったのかと何度も思った。

ロンドンへ着くとほっとした。空港でエアバスに乗りそこなった私の気持ちを ひきたてようとして冗談をとばす係の人の笑顔に、ああイギリスだと思い、帰 ってきたという気がした。スペイン語、イタリア語ではなく、聞けばわかる英 語が聞こえてきて、そして、この人がこうしているのはこういうことなのだと いうことが、少しわかる世界に戻ってきて安心したせいだろう。
翌朝、ヒースロー空港へ2時間前に着くように、十分時間を見計らってエアバス に乗ったのだが、ロンドン市内の信号故障の渋滞で、離陸一時間前になっても バスはまだ市内にいた。私は気が気でなく、ダブルデッカー(二階建バス)の 二階席から降りて運転手のところに行き、「私の飛行機は14時55分発なんだけ ど、これじや間にあいそうにないね」と言うと、運転手は、「14時55分?」と聞 き返した。そりゃ大変だと言う風ではなく、のんびりした調子なので、どうして だろうと思ったら、「今12時55分だよ」と、私の腕時計の時間より一時間早い 時刻を言う。「え?lとて時計を見、ヴェニスとロンドンは時差が一時間あるこ とを思い出した。昨夜、目覚まし時計は一時間進めたのだが、腕時計をヴェネ ッィア時間のままにしていたのだ。「ああ助かった!」と思って、思わず声が 出た。すると運転手は、「あなたの飛行機はどのターミナルから出るのか?」 と尋ね「ターミナル4」と答えると、「私はあなたに空港での一時間を保証し てあげよう」と言い、マイクを握って「このバスはターミナル4に13時50分頃着 きます」とアナウンスし、そしてマイクを置いてハンドルを握ると、まっすぐ 前を真面目な顔で見つめた。バスに乗せた乗客を、飛行機の離陸時間に間に合 うよう無事に空港へ送り届けようとするその姿勢は、何とも頼もしかった。
私は長年イギリスに暮らしたわけではなく、多くのイギリス人を知っている わけでもないが、私の知る人の多くは、声高に自分の権利を主張するのでは なく、何であれ自分に与えられた仕事を、責任をもってやりとげることによ って自分の存在を示そうとする姿勢を持つように思う。私はこうした人々の 姿勢に接すると、またイギリスに惚れなおすのであり、また来ようと思うのである。


The Chukyo University Society of English Language and Literature
Last modified: Thu Apr 30, 1998

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