私がここにいる理由

織田 まゆみ (大学院学生)



   社会に出てかなりしてから、大学や大学院に入ったという話は、今時全然めずら しくはない。また、出身学部が、その後の人生を長く強く決定するということば かりでもない、ということも経験的にわかる。ところが、我が事となるとなぜか 言い訳したくなる。法学部→社会学部(学士入学)→文学部英文という私の「変遷」 の、多分最後のところが、冷静に考えて判断したというより、熱気に押されて気 づいたらこうなっていたという気がするからだと思う。その熱気の中身は、英米 児童文学を勉強したいというごく平凡な願いなのだが、何かに似ているような気 がして照れてしまうのだ。その何かとは、主人公は遍歴するけれども、結局いつ も身近にいた幼な友達を愛しているのに気づいたというあの話である。

   60年代が私の現役子ども時代だった。この時期の日本児童文学の状況を、絵本の 福音館、翻訳の岩波、創作の理論社と説明する人がいるが、私は岩波もので育っ たといえよう。小学校へ入学すると、「岩波の子どもの本」が毎月何冊か本屋か ら届くようになった。これらは、20cm×17cmくらいの小型の本で、贅沢な作りの 今の絵本と比べると文字がぎゅうぎゅう押しこまれていた。でも、講談社の絵本 や「ひかりのくに」ぐらいしか知らなかった私には大変魅力的だった。『はなの すきなうし』『こねこのぴっち』『ひとまねこざる』『ちいさいおうち』『海の おばけオーリー』『百まいのきもの』『きかんしゃやえもん』など20数冊あった と思う。改め見ると、エッツ、マーシャ・ブラウン、スロボドキン、ベーメルマ ンなど一流の画家が名を連ねていて、編集の並々ならぬ熱意が感じられる。当時 の私にそんなことがわかるわけもないが、『おそばのくきはなぜあかい』の絵 (初山滋)が大変不思議だったことはずっと記憶に残った。後年、私の子どもたち が、元永定正の『もこもこもこ』を見て喜んだ時、初山の絵をみた時の"不 思議ですてき"な気持を思いだし共感したものだった。

   8歳の時『クマのプーさん』を読んだ。岩波少年文庫版で、シェパードの絵も彩 色してなかったものである。地味な装丁の本を開けてみると、おかしいのとおも しろいのと暖かい世界が広がっていた。次の年、ドリトル先生物語全集を買って もらう。おもしろくて、おもしろくて、1冊につき10回くらいは読んだ。今読む と、行間に漂うペシミスティックな雰囲気も含めて、一体ドリトル先生ってどう いう人なのだろうと釈然としない面もあるが、当時の私は「動物語」に興奮し、 動物たちの行動を親身になって見守っていたのだと思う。だから、数年前、某自 動車会社がドリトル先生を宣伝に使った時、腹が立って仕方なかった。

   他に記憶にあるものは、ケストナー全集、リンドグレーン全集、C.S.ルイスのナ ルニア国全集、それから岩波少年少女文学全集などである。あのころは、抄訳の いわゆる「名作」全集ものが、大変売れたのだが、それらに対抗し、岩波少年文 庫を守るために、この岩波少年少女文学全集は作られたこと、どこかで聞いたこ とがある。ブルフィンチの『ギリシア・ローマ神話』から始まり、各国の受賞作 品を中心に30冊集めた全集で、3分の1は、戯曲・伝記・歴史などのノンフィクショ ンだった。かなりの質と量の『人間の歴史』(イリーンとセガール)も全部読んで しまったのだから、子どもの勢いというのはなかなかのものだ。全集を読んで、 気に入った作品の作者が、他に何を書いているのか探すことも始めた。このやり 方で、ワイルダーも数冊読んだが、何といっても熱心に探したのはアーサー・ラ ンサムだった。当時翻訳されていたのは3冊。未翻訳の9冊がくやしかった。とこ ろが小学校6年の時、ランサム全集が刊行されたのである。

   当時の読書を思い出してみると、私が何を基準にして本を読んでいたかがわかる。 まずおもしろさ、次に安定感がある。私はハックよりトム・ソーヤーの方が好き だった。大人の「みえない」庇護の下で、のびのびと選べるというのが最高によ あった。ランサムや、リンドグレーンの『カッレ君』のように....。そして、か らっとしていること。湿っていると感じるものは、泣かせる話や演歌の世界、そ してお饅頭までどうも苦手だった。

   ランサム全集を読んで夢がかない、私の子ども時代は、主観的には終わった。も う大人のつおりだったが、大人の文学への橋わたしはうまくいかなかった。中学 校の感想文ノートの強制で、4年間楽しみにつけていた読書記録も一切やめた。 時は学生運動の最盛期で政治の季節だった。高校生になうと新書を読む方が多く なり、何だか文学は甘っちょろい気がした。文化祭では、沖縄「返還」について 調べた。大学の学部選びは当然この路線となった。今思えば、父離れというねら いもあったように思う。父はロシア文学の翻訳家で、1つ聞けば5つくらい返って くる人で、存在自体が少々うっとうしく、同じ分野などまっぴらだった。

   児童文学との再会は、モラトリアム人間と揶揄された社会学部在学中だった。下 宿の隣人が同志社の文学部の人で、自分の本箱から好きな本をどうぞと言ってく れたのだ。この時ピアスとカニグスバークを読み心底びっくりしてしまった。実 におもしろかった。児童文学はこんなに変わったのかと思った。それから少しず つ読み始め、だんだんのめり込んでいったが、児童文学を読む大人って何か気恥 ずかしいなという気持ちがどこかにあった。

   名古屋に来て数年後、Iさんと偶然会ったことが私の児童文学観をかえる契機に なった。ダスキンのアルバイトさんと何がどうなって児童文学の話になったのだ ろう。児童文学の研究会(注1)があることを初めて知り、児童文学も研究できる のだと発見したのだった。だが研究会参加は3年後になる。この間私はもう1人出 産し、Iさんは大学院を卒業していた。
   研究会参加と同時に原昌先生を紹介していただき、先生の授業の聴講生になった。 久々に1人になれる時間を持て、しかも好きなものを学べる喜びはすばらしかっ た。だが徐々に、英語の問題にぶちあたっていく。英語は不得手な上、20年近く やっていなかった。なのに、児童文学をもっと学ぶには英語は前提だということ がやっとわかったのである。最初は「ちょっと忘れただけ」などとごまかしてい たが、ジーン・ウェブスターの伝記を読んで、自分の英語力が中卒程度だとはっ きり知った。

   あれから、もし田村晃康先生との出会いがなければ、私は確実に、今ここにはい ないだろうと思う。原先生が多忙のため、私を研究生として引き受けることがで きなかったので、無理をいって田村先生に頼んで下さったのが2年前の春だった。 田村先生には、本当にご迷惑だったと思うが、私は最高の英語の先生を期せずし て得たことになった。先生はとてもやさしく丁重だった。そんな質問にも、よど みなく返答があり、わからないことに慣れていた私には驚きだった。そして、あ たりは柔らかでも、己れを厳しく律する先生のお人柄がわかってからは、怠けた 言い訳すら見通されているような気がした。不出来な弟子だったが、必死でつい ていった。「あれもこれもと目移りせず、いいテキスト(注2)を決めて根気よく くり返すこと」「忘れることを恐れず、忘れたらまた学べばよい」この2点が、 先生から得た英語勉強のポイントだった。横文字を見ると、胸がどこかでつかえ たような気分がしていたのが、だんだん軽くなっていき、ついに運命を甘受?で きるようになっていった。原先生の研究生になった翌年も、田村先生には大変お 世話になった。だから、先生が鈴鹿国際大学に移られる前に、大学院に入ること ができて、本当にうれしかった。

   このようにして、私はここに来た。キャンパスを歩きながら、突如"運命の 不思議"に心打たれることもあるが、大抵は予習、予習で追いまくられてい る。父との関係は高校生の時に戻ってしまった。ちょっぴりくやしいが不快では ない。児童文学以外の授業も大変新鮮に思う。しかし、何といっても意外だった のは、この私が英語を好きになりはじめていることだろう。二度目の20歳もなか なかミステリアスである。


次の2つの(注)の情報が誰かの役に立てればうれしいです。

  1. 東海児童文化協会のこと。1971年子どもの文化財に対する危機感を背景に 創立される。現在の主な活動は、児童書部会月例会(研究発表、読書会)フォ ーラム、研究誌「児童文化」の刊行。子どもの本や文化に興味がある人な ら誰でも入会できる。
  2. 田村先生は英文読解に関し次のテキストを勧められた。

The Chukyo University Society of English Language and Literature
Last modified: Thu Apr 30, 1998

Previous