ビヨン・ザ・ブック

片山 厚 (文学部教授)



電子メディアの発展が私たち旧世代の者をどれほど戸惑わせているか、文字通り 筆舌に尽くせぬ思いの毎日です。書くことも、話すこともままならない外国語の 文学に塗れている日常であれば、この媒体の発達がなにほどかの利点になればと 密かな期待を抱きながら、その目覚ましさに唖然とするばかりというのが偽らざ るところです。

この進歩の早さからすれば、既に旧聞に属することかもしれませんが、平成7年 初めに開催された二つの学術会議は、私たちにとってはなはだ興味のある催しで した。いずれの会議も、変貌するメディアの世界と人文科学の関わりあいについ て、いかに対応すべきかをそのテーマとするものでした。科学と宗教などといっ た話題を持ち出すまでもなく、人文科学者を自称する輩が自然科学のことを何と なく疎遠にする風潮があって、ときにはそれを特権のように振舞う者もいるわけ ですから、その成果に注目して当然でしょう。もっともこのように二元的に考え るようでは時代の趨勢から取り残されるのかもしれませんが。

この会議のひとつが掲げた "Beyond the book: Text in the World of Electronic Communication" というテーマは十分に好奇心をそそるもので した。聖書から始まって、あっという間にシェイクスピアやら米国憲法等と、版 権の規制すれすれに数多くの文書がいわゆる電子可読のテキストとしてネットワー クに溢れてしまった世の中ですから、図書館の埃の匂いを楽しんでいた身分にとっ ては行末を案じて当然です。人文科学者の集まりとはいえ、さすがに科学技術の 発達を全面的に否定しようとするラダイト主義者はいなかったようです。驚くほ ど身近になった電子技術が、私たちの認識の世界に確実に変化を生じさせている ことを誰しも認めないわけにはいきません。

この会合がどのような結果に終わったか、ここで触れる余裕はありません。むし ろこの種の議論から明白な結論を期待するのは無理でしょう。ただ、科学技術と 文化の相克がその極限にまで押し進められたかの様相を呈する。このポスモダニ ズム現象とまで言われているものが、実は決して新しいものではなく、「ファウ スト博士」や「フランケンシュタイン」の頃からの延々と続いてきた問題である、 というのが共通の認識であったようです。確かに、理念を忘れて実質的な形象に 人生を委ねることの多かった歴史的事実は、言われてみるとどの時代にも見つか るようです。外界を征服したつもりの人間が自らの精神をそれに隷属させてしまっ たと嘆いた詩人がいたことも思い出します。

それでもなお私たちは、印刷術の発明にも等しい革命がいま眼前に展開している という印象を拭うことは出来ません。吸い込まれそうになる液晶画面から、書物 を越えた何か新しいメディア文化の世界が現れるのではないか感ずることもしば しばです。

そこで、この直面するメディアの変容に私たちがどう対処するかということです。 そして、この変容と言われるものが実はそれほど革命的なことではないと考える ことです。書物と電子可読テキストの違いは前者が物理的な実体で、後者が仮想 の存在だという点にあるはずです。しかし、今では大半の書物がその実体として の価値を失ってしまっていることに気がつきませんか。芸術的な稀覯本などは別 ですが、実用性を重んずる場合ほどその程度が著しく、世間の印刷物が、者とし ては既に仮想の存在に成り変わってしまっているようにも思えるのです。文庫本 を切り裂いて、当面読む分量だけポケットに、という読書もあるそうです。デジ タルのテキストは私たちの意のままに分断したり、結合したりすることができま す。でも、それと同じことを私たちは以前から書物について始めているのです。 既に書物を越えているわけです。

このように考えれば、新しいメディアは、必ずしも新しいものではないのかも知 れません。技術の変化を素直に受け入れようとして、つまり、より便利だからと いうだけで、萎縮することはないだろうと自らを省みることになります。ハード とソフトのひそみに倣って言えば、頑固な精神と脆弱な頭脳が苦闘する所以です。

上述の会議でもっぱら使われたキーワードは、"from physical to digital" というものでした。この言葉自体があたかも当然のことのように進歩 の概念を内包しています。技術の変革は元来理念とは別のものであったつもりで すが、今ではお互いに干渉し合い、その存在を脅かすまでの状況になっています。 しかし、これは決して進歩ではありません。なぜなら、その現象は決して過去を 乗り越えて成立しているわけでもなく、もちろん既存の文化様式を否定した事実 もないからです。メディアの変革も、いわば仮想の進歩として、そうした超越や 反逆が不可能なことを示しているのではないでしょうか。

こうして毎日、恐ろしいCRTに睨まれながら、私たちは文化の保守性を堅持して いるわけです。


The Chukyo University Society of English Language and Literature
Last modified: Thu Apr 30, 1998

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