オーちゃんとパンチ&ジュディを読む

岩田 託子 (文学部助教授)



人形劇パンチ&ジュディはイギリス文化に浸透しているので、数多くの小説 にパンチ&ジュディが登場している。とりわけディケンズ、なかでも『骨董 屋』(1841)は、パンチ&ジュディの魅力をあますことなく伝えている。さて、 大江健三郎『キルプの軍団』(1988;岩波、1994)では高校生のオーちゃんが英語 の勉強に『骨董屋』を読んでいる。オーちゃんはパンチ&ジュディをどのよ うにとらえているのか、気になってのぞいてみた。すると驚くべきことに、オー ちゃんは、イギリス式 close reading を軽やかに実践し、パンチ&ジュディ を読み込んでいたので、これを紹介してみたい。

1.オーちゃんの〈読み〉方

ご安心を。高校生のオーちゃんは、独力で原稿を読んでいるわけではない。父方 の警察勤めの叔父さんがチューターをつとめている。この人が、残業もそこそこ に帰宅し、しょうしん のための勉強もせず、ディケンズを読んできたというス ジガネ入りのディケンジアン。さて叔父さんは、予習の宿題として、まずざっと 100頁、特に朱線で囲んだところは念入りに読み、巻末の註釈に注目するように という指示を与える。この導入第一歩はシブイ。「まずざっと100頁」なんて実 にいい。長編小説などはこのくらいの分量をまずともかく読まないとノレないも のだ。そして、すでにこの小説を通読し、愛してやまない叔父さんが「朱線で囲 んだ」大事なところは、読書に「めりはり」をつける格好のガイダンスとなるは ずだ。その上で「註釈に注目」というのもディケンズ読みの醍醐味だ。なにぶん 異国の、それも150年も前の話を臨場感をもって楽しむためには、知っておくべ きことは多々あり、それは註釈に集約的に現れている。註釈こそ玩味に値する。

さて、授業はといえば、まず叔父さんが音読する。すると抑揚はポーズから、オー ちゃんひとりで予習した時にはわからなかったところがわかるという。本当はそ ういうもんなんだ。ついでオーちゃんが音読するが、それを聞いてわかってなさ そうなところを叔父さんが質問する。朗読にはその人の読解が如実に出るものな のだ。そして、感想や印象を話し合うという。このような授業には羨望を感じて します。マン・ツー・マンが、本当に少人数で気合いを入れてはじめて成立する 授業形態だろう。

だが、思い起こせば、こういう読書の時間を私自身もかつて持ったことがあっ た。それは、イギリスの大学院留学時に特別にお願いしたチューターによる個人 授業だ。そう、オーちゃんの読書はまさしくイギリス伝統の「チュートリアル」 による close reading だ。

私の場合、世紀の授業ではゼミ一つにつき一週間の宿題はペーパーバック一冊と いうのが多かった。ゼミは二つ取らねばならなかったので、予習に追われていた。 ゼミの授業は、まず報告者が問題点だとか批評意識に支えられた感想を述べ、そ れをもとにみんなが討論するというかたちをとる。もちろん議論に寄与する発言 が求められるし、何も言えなければ肩身が狭く、ひいては不登校の原因となる ...。 遮二無二予習し、授業も終え、テクストをつかんだ気がして、意気揚々と帰宅し ても、「ここはどういうことだろう」と付箋をつけておいていたような、おそら くその多くは愚問なのだろうが、私自身の問題設定は解かれていないままである。 こういう状態が何週間か続くと、いくら議論で高揚しても、何か足元のおぼつか ないような不安がぬぐえない。結局自分は何も分かっていないのに、いい気になっ ているような ....。そこで意を決して指導教官に相談にいき、解決策としてネイ ティブの大学院生を紹介していただき、家庭教師をお願いすることになった。奨 学金留学生に支払える程度の安い謝礼、たしか、一回一時間で5ポンドだったと 思う。

私としては、てっとり早く質問にポンポン答えてもらって、ハイッ次、ってな調 子で効率よく片付けるつもりだった。ところが事態は全く異なる展開を見せるこ とになった。「あの、ここのところ、どうして接続詞は逆接なんでしょう」なん て尋ねると、チューターが、ちらりと見ただけで、「どれどれ」と前の頁にさか のぼり、えんえんと、それも感情をこめて朗読しはじめた時には、まいった。忙 しい忙しいの私の時間が、そして乏しい財布からは5ポンド紙幣が飛んでいく ....。 しかし、あれ不思議。いざその接続詞のところまでたどりつくと、わかっていた。 なぜそこが逆接にならなければならないか、という文章の論理というか生理が。 で、「もうわかった」といっても、次には進ませてもらえず、そのあたりの文章 の論理というか生理を話し合い確認する。時間とエネルギーは膨大に食ったが、 最後は本当によくわかった気になり、晴ればれとした。

この一連のプロセスが英語でいう close reading である。日本語で「精読」と 訳せは誤訳になろう。わからないとなるとその個所をじっと見つめ、その語を辞 書で調べまくるというのは訓詁学の伝統にのっとる我が国の「精読」だろうが、 英語の close reading とは違う。もちろんどちらの読書法にも長所も短所もあ るので、臨機応変に併用するのが望ましい。しかし日本の大学でもこのような close reading 術はなかなか訓練していないのが現状であり、それを高校生のオー ちゃんが実践するとは頼もしく、さて、その成果やいかにと気になるところであ る。

2.オーちゃんがパンチ&ジュディを読む

『骨董屋』を読み進むオーちゃんは、ほどなく16章でパンチ&ジュディに出 会う。もちろんこれが何なのかわからないオーちゃんは叔父さんのアドヴァイス を思いだして註釈を読み、「イタリアのコメディア・デ・ラルテ劇のプルチネル ロという人物から来た、パンチを主人公にする人形劇」という輪郭をつかむ。し かし、ちょっと考えればわるように、この註釈それ自体は人の疑問を解くもので はない。「コメディア・デ・ラルテ劇」とは何かとか、「プルネチルロ」とは何 かとか、分からないことをイモづる式に検索して深みにはまっていくことに・・・ 少なくとも私はなってしまった。しかし、ここで叔父さんがまたまた建設的なア ドヴァイスをしてくれる。オーちゃんの親父の友人の文化人類学者が「パンチと ジュディ劇」のことを書いているので、それを読むようにと勧める(山口昌男 『道化的世界』所収)。これはまさしくチューターの面目躍如。このようなチュー ターの存在の有無は学習の進捗を大きく左右する。しかし、オーちゃんはといえ ば、これも「一般読者」(V.ウルフいうところの common reader)の面目躍如。 「僕としては、ディケンズの本にある挿絵だけで一応話は了解できたと考え、父 には話しませんでした」(p.46)。小説を読む上では、まずは先に先に読み進むこ と、そうすれば振り返って分かることこそ多いので、オーちゃんのこの態度は、 まったく理に適っている。その上に「挿絵を読む」という、ヴィクトリア朝独特 の挿絵入り小説の読解において不可欠かつ有効な観点を実践してしまうところが、 オーちゃんもやるな、って感じ。あんなに分かっている叔父さんがこの読み方を 失念しているらしいのも面白い。オーちゃんのような漫画・劇画世代には体得で きている読みで、かえって叔父さんの世代には思いもつかない読み方なのかもし れない。

そのあげくに「『パンチとジュディー劇』の見世物師のひとりがトランペットで 別れの挨拶を送るしめくくりなど、美しい情景だと僕は思いました」(p.47)とぬ けぬけとのたまうにいたっては、ついうなってしまった。このような素朴かつ的 を得たコメントこそ、学者は言えないわけだ。さらに悪いことには、「言えない」 という抑圧状態があまりに永く続くと、「言えないようなことは感じない」とい う神経症すれすれの不感性にいつのまにか罹ってしまい、感受性もひからびて行 く ....。恐しいことだ。

さて、しかし、残念ながら父の子というべきか。やがて上記文化人類学者の「周 辺理論」や「道化論」を身につけ、「スイヴラーの『明るい道化性』をも指摘し、 父を驚かす」(p.227)に至る。さらには critical survey にまで手をそめて、二 次文献の研究書 Paul Schlicke, Dickens and Popular Entertainment まで読みこなし、「キルプのふるまいのパンチ性」(p.211)を指摘したりする。 見解自体は別にオリジナルでもなんでもなく、学術論文になるレヴェルではない が、ともかく卒論レヴェルには到達している。「卒論指導」をしても、なかなか ここまで至らないのが、残念ながら実状である。

作家の実人生と作品を無反省に重ね合わせるのが危険なことは承知しているつも りだが、オーちゃんの読書法は作家の経験に基づいていることはたしかだ。実は 大江健三郎自身が息子の受験勉強に『骨董屋』を教えたらしい。(『八事』 第5 号 1989.3.1. 対談「古典はどうしてもおもしろい」聞き手 江川 卓)。だが、受 験は失敗したという。これはもちろん日本のいわゆる受験英語に問題があるのは、 いまさらいうまでもない。しかし、大江のしぶといところは、この教育方法を変 えなかったところで、その後日談(『恢復する家族』 講談社、1995)にも含蓄が ある。スイミング・クラブで知り合って、これぞ英語ができると見込んだ人を浪 人中の息子(オーちゃん)のために家庭教師として引っぱってきて、やはり、英国 流 close reading で「アインシュタインの手紙やイエーツの評伝を丸ごと一冊 読みながら英語で議論する」レッスンを続けさせ、母親が「これでは東大の理科 かなにか、難しい問題の出るところのほかはだめだ!」と嘆くのも聞きながし、 一年後には息子はそこに合格したといういきさつがある。すなわち、この英語学 習法は短期決戦では不利だが、長期的には力がつく、ということだ。初めはおそ るおそる原書に分けている感のあったオーちゃんは、時の経過っともにたしかに イッパシになっていった。

大江自身の語るところによると「(『キルプの軍団』の)主人公の高校生は『骨董 屋』をずっと読んでいる・・・そのうちに(ドフトエフスキー作)『虐げられし人 びと』を読んだ大人が介入してきて、そして(『骨董屋』の)ネルと(『虐げられし人 びと』の)ネリーという女の子像が交錯して・・・それがおの小説のテーマ」(前 掲『八事』)ということだが、『キルプの軍団』のあらすじは、もと過激派の映 画づくりが、結局内ゲバでつぶされるという展開になる。

したがってたとえば過激派の内ゲバ作法についての「連中はモロに頭を狙って来 るからね、ヤクザでもああはしないよ!」というような発言からは、いつも「モ ロに頭を狙って来る」人形劇の主人公パンチへの、異形のものを見るようなまな ざしを読み取ることができる。また、結末で「この世界はキルプのような悪意の 人間の望むまま」(p.313)と悟るオーちゃんは「キルプのふるまいのパンチ性」 に気付いていたわけだから、パンチ&ジュディが何か人間の根源的なところ に根差していることにも、思い至っていると期待させる。この小説の低温にパン チ&ジュディが投げかけるものがあったのだ。

3.〈読み〉を越えて、大江の小説世界は・・・・

これまでに述べてきたように、たしかに『キルプの軍団』でオーちゃんはいわは ブリティシュ・トラッドの読書法を実践しており、ひるがえって「読書家」大江 健三郎を彷彿とさせる。しかし、それはまた同時にこの小説の弱点でもあるのだ。 なぜならば「この小説のテーマ」が先ほど引用した作家自身の弁のとうりである ならば、『キルプの軍団』は文学作品の〈読み〉に立脚して生まれた小説であり、 そのような小説に特有の脆弱さをぬぐえないのだ。『大江健三郎とは何か』(鷲 田小彌太はか、三一書房、1995)では大江のこのような小説を「読書小説」とい う概念で論じているが、むべなるかな。

たとえば、ここに描かれた過激派の内ゲバにリアリティーを感じるのはほぼ不可 能な気がする。あまりにも書き割り的でありすぎるからだ。書き割りを突き破る ような何か、真に創造という名に値するようなものが、この小説には決定的に欠 けている。

このような『キルプの軍団』の欠陥は、95年春を騒がしたオウム真理教の一連の 騒動にまつわり、ごく初期の段階で名高いジャーナリスト有田芳生による上佑史 浩革マル説や、かの立花隆による早川紀代秀黒ヘル説が、瞬間「そうかもしれな い」という説得力を持ちかけた、そのしりから雲散霧消したことを思い出す。有 田にしても立花にしても、そしてこのようなジャーナリストの言説を採択したマ ス・メディアや、それに一瞬耳をかした我々にしても、このような読解が通じな かったことを忘れるべきではないだろう。かつては有効であったパラダイムも通 用しなくなること、身につけたパラダイムをこわすような未曾有の出来事に、わ れわれは遭遇しうるのだということを思い知らされたはずだ。

そして、云うまでもなく、クリエイティヴな小説家の仕事は使い古したパラダイ ムで器用に書き割りをつくることではなく、読者に読み解く術を失わせしめ るような新しい体験をさせることである。近年の成果では、フランス語をまるで クレオールのようにあやつり、あっと驚く小説を発表したアゴタ・クリストフの ように・・・・・。

『キルプの軍団』は、まさしくこの点に期待はずれなところから、小説家として の大江の衰弱をもっとも強く感じてしまう。加えて、高校生のオーちゃんがあま りにも「児童」的である点も興ざめだ。そのウィタ・セクスアリスが見事に欠落 していて、気持ち悪いほどだ。かつて衝撃のデビューを飾り幾多の文学青年の筆 を折らしめたという若き大江の作品群を愛する者には、もはやこの小説は読むに 値しないだろう。

というわけで『キルプの軍団』は読まなくてもいいけれど、でも、自分が「これ は」と感じた原書はオーちゃんのように読むことをお勧めしたい。


The Chukyo University Society of English Language and Literature
Last modified: Thu Apr 30, 1998

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