中京大学英文学会講演会報告







「アメリカ文学と空間」

桜美林大学文学部教授 井上謙治氏

萩 三恵 (大学院研究生)



スタインベック研究の第一人者である氏は、スタインベック・カントリーのカリ フォルニア州はサリーナス・バレーを旅された40年ごど前の印象を例に、日本人 のイメージをはるかに越えたアメリカという国のスケールの大きさへと聴衆の興 味を集める。日本の25倍という広大な国土を誇るアメリカ人にとって、彼らの文 学とは、アメリカン・ジオクラフィーむきにしては語り尽すことはなく、その大 陸は、アメリカ文学だけに存在する大いなる「空間」をつくりだしたのであると 氏は考える。

古典的なものを一つ挙げるとすれば、James Fenimore Cooper は先頭に立つ作家 である。The Last of the Mohicans (1826) を含む5部連作とする "The Leather - Stocking Tales" は、伝説の開拓者、ダニエル・ブー ンがモデルのナティー・バンブーを主人公として、ニューヨークの西からミズー リーまでの旅を描いている。未開の山野の巧みな情景描写は、アメリカの荒野を 際だたせ、そんな自然と文明の対比を主題としながらも、主人公の大自然崇拝の 生き方はロマンを感じさせる。

アメリカの荒野ならぬ大海原を舞台に、もう一つのロマンを見せてくれるのが、 海洋小説の最高傑作、Moby-Dick; or, The White Whale (1851) である。 Melville が描く幻想モービー・ディックとの格闘の場となる荒れる海を荒野と オーバーラップさせられるのは、そこに、ブーンが目指した限りない「空間」の 広がりを認められるからにほかならない。

それから、時代はアメリカの国民的作家、Mark Twain の登場を迎える。筏に乗っ て川を下るハックと黒人奴隷ジムは、南北戦争以前のアメリカの様々な社会的、 政治的、道徳的な階層の人々に出会うと、残酷な偏見に幻滅を覚える。豊かなミ シシッピー川という「空間」を移動する二人の「旅」は、現在の環境から逃亡す る旅、新天地での開放を求める自由への旅となって、アメリカ文学を導いている。 理想を目指す自我の探究を、冒険小説の要素を繰り返すピカレスクの形の中に映 し出す通過儀礼の物語は、Twain の文学の核を成しているが、それは、アメリカ 的でありたいと図られた一方策とも受け取ることができよう。

1914年、第一次世界大戦勃発。米国からの「亡命芸術家」である Hemingway た ちに影響を与えたことで知られる Gertrude Stein は、斬新で強烈な文体の女流 作家である、文学者である。彼女は、20世紀のはじめに、アメリカ文学をイギリ ス文学の位置にまで引き上げることを可能にする論考を残している。「伝統」を 大切にするイギリス文学に対して、アメリカ文学は、伝統という「時間」性より は「空間」性を重視する特異性を論じ、アメリカ人のための文学の確立を証明し ようと試みたのだった。

「失われた世代」の作家たちは、アメリカの病弊の治療をヨーロッパ文化の中に 求めようとしたが、故国にとどまることを選んだ作家たちもいた。中でも最も重 要な作家は、Faulkner と Steinbeck である。これら二人の文豪は彼らの世代の 問題を、自分たちが生まれ育った地域社会から取りあげ、土着のアメリカ的な情 景や人物や歴史を描き出そうとした。機はまさに熟し、Stein の鋭い考察が実践 に移されると、アメリカ文学はこれら二人の作家によってさらなる高まりを見せ ることになる。

南部、ミシシッピー州に生まれ、生涯のほとんどをそこで過した Willian Faulkner は、ミシシッピー州のいくつかの町や郡からいろんなものを寄せ集め て、ヨクナパトーファ郡、ジェファソンという架空の地を創造し、作品の大部分 の場面としている。秀作に数えられる As I Lay Dying (1930)、そして、 Light in August (1931) も Faulkner の世界にあって複雑な様相を示し ているが、それぞれの複雑さが、南部の歴史から生まれてくるという点において、 この作家の偉大さを明らかにしているといえる。南北戦争による敗北を最大の汚 点とする南部の歴史に残った、南部社会固有の慣習と伝統を書きつづった因襲的 な小説は、南部の土俗的な生態を描写するだけにとどまらない。

一方、Steinbeck は生まれ故郷のカリフォルニアを背景に、土地に密着した人間 や労働者に対して深い関心と理解を示した。この作家の名を不滅にしたのが、 The Grapes of Wrath (1939)。血のにじむような苦難に続いて、理不尽 に搾取されるジョード家のみじめな生活を描いて、文学史上 Steinbeck の地位 を確かなものにしている。オクラホマを去ってカリフォルニアへ移動することを 強制される「旅」は、人物の肉体的な衰退と道徳的向上を同時に構成することで リアリズムを目指しつつも、しかしながら、ローマン的要素を多分に含んでいる。 そこに母はなる大地に魅せられた、一人の芸術家の文学的姿勢を読みとることが できよう。

そして、第二次世界大戦後。新しい作家たちの小説は、古い世代の確信のうえに 成長しながら、アメリカ文学に多様性を示す。まず、ブラック・ライターの活躍 について。黒人問題を扱った作品としてはすでに古典的な作品となった Invisible Man (1952) は、Ralph Ellison の唯一の長編小説である。 「僕は見えない人間だ」で始まるこの作品の背景には、黒人の奴隷制の歴史が横 たえており、そこに生まれた黒人青年が、その悪しき歴史から逃れるべくニュー ヨークに出て行く。その間に主人公がアイデンティティを追求する「旅」は Huck Finn のピカレスク、あるいは、イニシエーションを彷彿させ、南 部からニューヨークへの「空間移動」は同様にアメリカ的である。

この時代のもう一つの文学的特徴は、ユダヤ系作家の進出とビート族の活動であ る。Saul Bellow と、J.D.Salinger は共にユダヤ系の作家だが、因習的な要求 を頑として受け付けない主人公を描いた Adventures of Augie March (1953)、中産階級的な世界の本質的な偽善と下劣さをあらわにした The Catcher in the Rye (1951) は、道徳性を問うピカレスクの小説である。

ところが、ビート・ジェネレーションに至ると、アメリカ文学は大きく変貌する。 Jack Kerouac は、ビートの小説家として最初に成功したが、後の On the Road (1957) は賛否両論が半ばしたが、豊富よりはむしろ欠乏を尊ぶ放浪者 としての生き方は、これまでのアメリカ文学にない奇抜さで名声を得た。日本人 にとっては想像を絶する強靭な精神の源は、Whitman が賛美する勇大なるアメリ カの広がりにあるといえる。

アメリカ文学がほかの外国文学、とりわけ、伝統的なイギリス文学に対していか なる態度をとってきたかは、歴史的に見て、アメリカの風土に密接な関係がある。 移民による建国に起源をもつアメリカ。開拓者によって夢とロマンを与えられた アメリカ人。その間に広がる壮大な国土は、限りない「空間」として人々の心を 捉えて離さないほどの魅力を放ち、あらゆる探求欲を刺激してきた。それこそが、 アメリカ文学の本質を成すものであり、果てしなく続く「旅」へといざなうアメ リカの魔力なのである。すでにフロンティアは消滅してしまった現在にあっても、 break through --- 理想を求めての現状からの脱出 --- というアメリカ的な国 民性は脈々と受け継がれ、無限の可能性を秘めたアメリカという豊かな「空間」 が、New Frontier としてさらに広がりを続けていくことを確信しつつも、計り 知れない力強さには目を奪われるものがあると言えよう。





「文学と視覚文化」

東京都立大学教授 高山 宏氏

中村 賢一 (教養部非常勤講師)


平成8年11月9日(土)午後3時30分より、中京大学英文学会・大学院英文学専 攻共催で東京都立大学教授高山宏氏を講師に、「文学と視覚文化」と題される講 演会が、中京大学ヤマテホールで開催された。

氏は、現代における最新の英語辞典のページ・フェースの字と絵の関係をレイア ウトする技術は、350年にも及ぶ辞書編纂史の中から生み出されたものであると 指摘し、活版印刷をめぐる英文学の歴史を概観。最後に教授は、「われわれは、 無意識のうち活版印刷の情報伝達の仕方になじんでしまった。しかし、そういっ た方法にこの20年間変化が生じ、その方法論、脱方法論の時代に入ってきており、 英文学、英文化というのは、われわれが知らないところで、実は、その根幹を形 成している」と述べられた。

以下具体的に高山教授の要旨をまとめてみるとこうなる。

日常英語学習者が使用する辞書として、Longman Lexicon of Contemporary English がある。それは学習する際の tool としてだけでなく、3世紀半ぐらい のヨーロッパ人の言語と記号に対する感覚の大きな歴史の中での画期となってい る。そして、その辞書の特徴はと言えば、アルファベット順に引く辞書ではなく、 テーマ別に引く辞書である。これは今から100年以上も前に作られた、Roget's Thesaurus (1851) につながる内容を持っている。ロジェの類義語辞典は、テー マ別に引く辞書である。

これは、フランスからイギリスへ亡命してきた家系の息子であったロジェが独力 で作ったものであった。彼は科学者であった。ロジェは、この辞書を作る際に、 ある人のアイデアを借用した。その人とは、バラ十字団という秘密結社に属する ヤンコメンスキーである。ロジェは、辞書の序文に彼のアイデアがなければ、こ の辞書は完成しなかったと書いているのである。

王位協会はかつて 'Invisible College' と呼ばれていたが、1660年、ヤンコメ ンスキーと接触することによってロンドン王位協会は設立されたのであった。こ の協会は自然科学社によって構成されていた。

協会の会員の1人であるジョン・ウィルキンズは、1668年に、『哲学的言語』を 出版し、1つの記号が必ず1つの意味しか持つことのない言語、完全な言語、記号 の一意性を宣言した。すなわち、1660年以前までの英文学をこの協会は否定した のであった。この事実に英文学が気付いたのは、1930年代に入ってからのことで ある。

王位協会は、シェイクスピアの存在を否定したのだった。英語がもつ ambiguity であるが由に豊かなアングロ・サクソンの言霊は、消滅したのが 'I'm too much in the son'なのか、1つに決めることをせまり、ambiguity を許さなく してしまったのである。すなわち、この時点において、アングロ・サクソンの伝 統ある文化は消え去った。そんなわけで、英文学史は、1660年〜1720年間が空白 になっている。しかしはたしてこの60年間は、虚無の時代であったのであろうか。

ところで、ミシェル・フーコーは、『ことばともの』という本の中で、「1660年 代のフランスで表象と呼ばれる現象 --- これが机と呼ばれる理由を問う、つま り、私がこれをこうたたいてこれを見てくださいといえば、耳の聞こえない人以 外は、だれにもこれを見ることができる。しかし、ここに1人のフランス人がい て、私が口頭でこの机を見てください。と言っても彼は私の机を見てくれない。 きわめて当然のことである。しかしそれがあたりまえのことではないと考え、悩 んでいくという現象がフランスに起こった」と書いている。

こうした現象は、英国にも生じ、これを解決すべく努力くべく努力したのが、英 国王位協会であった。ジョン・ウィルキンズは、物の実体そのものを表現できる という普遍言語を作った。今日でいうところのコンピューター言語である。この 協会の成果は2つある。1つは、コンピューター・ランゲージの基本を作った。さ らにもう1つは、紙幣制度を採用したことである。

こうした中から英国のリアリズム小説は、出現したのであった。例えば、ダニエ ル・デフォーは株式相場の失敗を題材にして小説を書いているのであるが、リア リズム小説の「リアル」というものは、どこから生じたのか。それは、フーコー が唱えた「表象」である。つまり、これがなんで机といったら、みんなにこの物 だということを理解させることができるのか。それは約束事にすぎず、机という、 あくまで記号とか音というものにすぎないものが、こういう実体と一致するのは、 約束に過ぎないのである。

1660年代以前は、そうした約束事の対応は不潔だという観念でキリスト教はきた が、1600年以降は、さしあたってそれで運用しようと展開していったのであった。 これを机とリアルに表現できないということから、リアリズムに対するあこがれ が出てきたのである。そして、これを背景にジャーナリズムが登場してきた。

ジャーナリズムが提供する細かいデーターが示す信憑性というかつての時代の知 らなかったもの。つまり、どうして精密なデーターが与えられたらそうでない場 合にくらべて人間は信用するのか、という問題が生じてきた。例えば、何百隻ぐ らいの船というより、221隻の船があったというふうに描写した方がこの著者は 正確に伝えているという思い込み。これをリアリズムという名前で呼ばれている 小説家は、追求していくことになるのである。

ダニエル・デフォーの『ロビンソン・クルーソー』にみられる「17本の赤いクギ」 という描写は、「数字狂い」というこの時代の病理である。読者は、17本という 数字に何か意味があると思い込み、期待をふくらませていくのである。

detail は、それ自身で文化史の大きな問題になるのである。人間はどうして細 部にこだわり、細部を欲し、細部が伝えられると正しいと思ってしまうのかとい う構造は、1660年以降のものであるということができる。ambiguity を許さない。 その時出てきた言葉が real という言葉である。

ところで、エフランチェンバーズは、1728年、18世紀最初のテクノロジーの百科 事典を作った。その特徴は2つである。1つは、事物を引く事典にはじめてアルファ ベット順が使われた。このことは、ヨーロッパの書物の歴史、記号の歴史の中で、 1つの革命であった。それまでのヨーロッパの書物観というのは、どんな小さな 本であろうと、本の世界のことが勉強できるという基本的な立場で作られてきた。 ところが、アルファベット順で引く事典が出てきたために、事物がもっている順 序と本の中で成り立っている秩序が異なってきたのである。もう1つの特徴は、 教育の効果としての図解、イラストレーションの意味を発見した。

これはアルファベット順に引く事典なので最初に anatomy が出てくるが、この 解剖というのが、あらゆる知識の構成にさきだって存在したのであり、人体がふ わけされていく構造が、その後のディドロ・ダランベールの分類学に構図を与え ていったと、言われている。

ところで、イギリスの中で活版印刷が浸透してくるのは、1690年代のことである。 むかしから各行の最後はそろっておらず、また u と v の区別もされていなかっ たのである。しかし、1690年代に入って行の最後が整ってきた。

こうしたこととイギリスの小説の歴史は、関連性がある。初期の小説家のほとん どは、プリント・マスターであった。自分で書いた原稿を自分で活字に拾った。 そういう文化が英文学史上、空白の部分になっている1660年〜1720年という60年 間に存在したのであった。18世紀人は、紙の上に黒いインクで、ある必要があっ て印刷されていたあの紙自体も視覚現象としてとらえていた可能性が大である。

長い間我々は、活版の活字を通して正確をむねに教わってきた情報の伝達の仕方 が、フーコーの表象論が登場してきてから変化し、本の中に白紙のページが出てき て、そこに活字が並ぶことで何らかの情報が伝えられるだろうというあのリアリ ズム活版印刷小説の理念は、崩壊した。

これにかわって出てきたのが、マンガであり、広い意味の絵が受け入れられるよ うになってきた。文字の伝達をサポートするイラストレーションに過ぎなかった 段階から、絵そのものの読み方を知っていれば、別の情報の伝達の仕方があるこ とに気付き始めたのである。

私が感動したのは、先生の卓越した話術である。参加者は、氏の巧みな話術に魅 了され、盛大のうちにこの会は幕を閉じた。

中京大学英文学会・名古屋シェイクスピア研究会
共催特別講演会

元ケンブリッジ大学教授、ボストン大学教授

Prof. Christopher Ricks

「Measure for Measure」

小田原 謡子 (教養部教授)

中京大学英文学会・名古屋シェイクスピア研究会共催の特別講演会が、 元ケンブリッジ大学教授、ボストン大学教授クリストファー・リックス 氏を講師に、「尺には尺を」の題で、5月27日(月)名古屋キャンパス・ センタービル・ヤマテホールで開催された。ウィリアム・シェイクスピ アの『尺には尺を』なる題名は、『聖書』(「マタイによる福音審」 (7:l、2)「ルカによる福音書」(6:37))の「なんじら、人を審く な、審かれざらんためなり。己が審く審判にて己もさぱかれ、己がはか る量にて己も量らるべし」の一節に由来する。これは、キリスト教倫理 と法との関わりについての偉大な劇、現在、英、米、日、各国で大きな 問題となっているセクシヤルハラスメントについての最も偉大な芸術作 品である。凌辱についての劇ではない。それは、もし男が十分な権力を 持っていれば、彼らは実際の凌辱に追い込まれることなく、権力と権威 とを女が屈するまで行使することが出来るからである。これはセクシャ ルハラスメントがいかにして挫かれるかをみごとに描いた劇なのである。
ストーリーはこうである。ウィーンの公爵は、一つには、理論上ウィー ンで効力を失っていないはずの厳格な法律、あらゆる婚外セックスを禁 じる法の強制執行が自分には不可能とわかったため、ウィーンを出る、 あるいは出るふりをして、法の執行をアンジェロに委ねる。代理統治を 任されたアンジェロは、きわめて厳格に風紀の乱れを取り締まり、婚約 者を妊娠させた貴族の若者が、婚外セックスを禁ずる法にふれた科で捕 えられ、死刑を宣告される。血も通わないかに見えたアンジェロは、兄 の命乞いに訪れた若者の妹尼僧イザベッラの美しさ、とりわけ純粋さに 心迷い、一夜を共にすれば兄の命を救けようと言う。かねてよりアンジ ェロを愛し、婚約していた、したがって喜んで彼と一夜を共にしようと いう女性マリアナがイザベッラの身代わりとなり、彼は求めたもの(?) を手に入れる。にもかかわらず死刑執行命令を下す。が、彼はこのことに おいて成功しない。というのは、親切な、神の摂理的存在である公爵がハ ッピーエンドをもたらすからである。アンジェロは罰されはしないが、 面目を失う。これは恥についての劇なのである。
プーシキンは、アンジェロとイザベッラの物語を中心的な物語として詩に あらわした。アンジェロは、裁判官の殺人ではなく、裁判官の凌辱、裁判 官のセクシャルハラスメントと考えられることを、おそろしいやり方で行 っている。
さて、この劇は多くの点で問題劇である。まず、全く単純、明快な意味で 問題劇である。つまり、常にシェイクスピアの問題劇、すなわち、喜劇、 史劇、悲劇、後期ロマンス劇と分類される中で問題劇の中に入れられるシェ イクスピア中期の劇、それ自体に問題を含み、また倫理的問題、法的問題 、社会的問題といった問題についての劇でもあるものの一つである。これら は、問題をつくり出す、あるいは想像するという意味で問題劇である。それ を主題として劇がつくられていようといまいと存在する問題についての劇で ある。この劇はそういった劇の一つなのである。
この劇の中にあらわれているいくつかの問題を取り上げ、おしまいに、同 じ物語を主題としながら、全く違った扱い方をしているボブ・ディランの バラード「七つの呪い」を取り上げる。この劇は複雑さにおいて注目に値し、 ボブ・ディランのバラードは単純さにおいて注目に値する。複雑さも単純さ も評価すべきなのである。
この劇において、アンジェロの行為がいいか悪いかについて間題はない。 これは何かがいいか、悪いかについての劇ではないのである。善悪の判断 からすれぱ、アンジェロも含めて、誰もがアンジェロのやっていることが 悪いことを知っている。これは、悪い行為に対する懲罰の劇ではない。これ は、悪業を罰さないことについての劇である。
これは、また、バック・ラッシュ、すなわち、特定の方向、おそらくは性的 寛容への行きすぎを、古い価値観の名のもとに、すさまじい力でひきもどす バック・ラッシユと呼べるものについての劇でもある。これは、セクシャル ハラスメントについての劇であるだけでなく、性病についての劇でもある。 あらゆる婚外セックスを禁じる法の存在は、その社会が性病のおそろしい危 険にさらされていると考えれば理解出来る。すべてのシェイクスピア劇のう ちでも、これは性病、娼婦、取りもち等についての粗野で残酷な冗談でいっ ぱいの劇である。この劇についてのすぐれた批評をあげるとすれば、D.H. ローレンスのものがあげられるが、それは、シェイクスピアの世界では性病 がとても恐ろしいものであったこと、旧世界が新世界に対して為したことの ために、旧世界を罰するために新世界から持ち帰られた恐ろしく新しいもの であったことを、すぐれた才能をもって美しく書いたものである。
これは悲喜劇である。また法哲学についての劇でもある。哲学的問い、殺人 と過失致死の違いは何かという法にかかわる問い。ふりむいて自らの 頭を鏡の中に見ながら描いた肖像画ともいうべき、活発な想像力によっての み可能なシュールレアリズム劇でもある。これは権力劇、すなわち、多くの 民話に見られる、裁判所に嘆願に来た人の性的魅力に迷って権力を濫用し、 件の女生と汚い取引をしようとする腐敗行政官の劇でもある。
この劇にある一つの間題、犯罪における成功との関わりでの意図の問題から始 めよう。未遂に終った犯行と成功した犯行との間に差をつけないのは誤りだと人が感じ、しかし同時に、未遂に終ったというだけの理由で罪なしとするのも誤りだと人 が感じるのは、大変重要な問題である。「殺そうとしただけで、殺さなかった のだから、罰されるべきでない」という見解の反対は、「未遂に終わっても成 功しても、その行為は等しく悪いのだから、どちらの場合も同じように罰され るべきである」というものだが、この見解をよしとする社会を教授は知らない。 犯罪の犯罪の意志もしばしば罰され得るが、犯罪を企てても、それが未遂に終 れば、その犯罪が成功した場合よりも、罪は軽いという不思譲な感情がある、 これがこの劇において大事な点である。というのは、アンジェロは、凌辱とい う彼の意図において成功しなかったからである。アンジェロと喜んで一夜を共 にしようという女性がいて、イザベッラは身を守り、彼の意図は挫かれたので ある。
イザベッラは兄が殺されたと信じている。というのは法の裁きは死刑だからで ある。兄が殺されアいないことを願いながら、しかし兄が処罰されるに値する ことを行ったことを知っている。アンジェロの命乞いをとマリアナに求められ、 兄の命乞いをしなかった彼女が、アンジェロの命乞いをする。「死刑だけはお 赦しくださいませ。兄は、死罪を犯しましたのですから、ああなったのは正当 でございます。アンジェロさんは、よくないおこころはあったって、実行はな さらなかったんですから、それは中途で死んだ意志として葬ってしまうのが当 然でございます。考えたぱかりなら事実ではなく、企てたぱかりならほんの考 えたぱかりですから。(五幕一場)」だから彼は殺されるべきでないとは、な んと巧妙な言葉であろうか。
英国の法理学者ハーバートハートは、刑罰と責任についてのすぐれた著作で、 社会が、何故イザベッラに賛成するのでも反対するのでもない立場を取るかを 論じている。賛成するのはセンチメンタルであり、反対するのは、社会の許容 範囲を越えて冷酷である。アンジェロは大変冷酷で、彼の立場は「誘惑される のと罪を犯すのは別(二幕一場)」で、意図を実行に移す移さないは別として、 犯す意図を持った時に人はすでに罪を犯しているのだというものである。何故、 あらゆる過ちは犯される前に有罪を宣告されないのか、意図を実行に移す前に、 人はすでに有罪を宣告されている。さて、これは、真の哲学的、社会的、法的 問題である。それは、人間が明確な二つの立場のいずれかを取る事に心安らか でいられないからだと思われる。G.E.ムーアのような結呆論者の立場からす れぱ、動機が何であれ、結果が判断基準である。カントのような本質論者の立 場からすれば、結呆とは無関係に、物事は本質的に正しいか正しくないかであ る。人はみな、結果論者でもあり、本質論者でもある。ある時には結果論者、 ある時には本質論者なのである。この劇は、法制度が順応しなくてはならない 結果論と本質論の衝突についての劇なのである。
これはまた、約東違反についての劇でもある。アンジェロは、一夜を共にすれ ば、それを賄賂とみなし、兄の命を救けようというイザベッラとの約束を守ら なかった。アンジェロが約束を守らなかったことはいいのか悪いのか。彼は人 間としては悪い。しかし統治者としてはいい。つまり(イザベッラの体という) 賄賂を受け取っておきながら、兄の命を救けようという約束を守らず、法の定 めるとおり死刑執行命令を下したのは、統治者としてはよかったのである。
約束を守らなかったことに関し、『リア王』を思い出してみれば、リア王は、娘 たちが自分を愛しているのをよく知っていながら、どれほど自分を愛しているか を言葉にあらわすことに応じて王国を分けるかのようなことを言うのだが、そ のような分け方はしない。リア王が娘たちに対する約束を守らなかったことは、 よくもあり、悪くもある。これは娘たちにすべきやり方ではない。そのような ことを言うべきではなかったのである。
アンジェロは劇が進行するうちに、よくなったのか、悪くなったのか。高潔に、 名誉を尊んでいた彼が、劇の終わりまでには、全くぎょっとするような振る舞 いをするようになっている。独善性と自己満足で身を固め、同情心がなく、よ くはあったが冷血だったのが、劇が進むにつれ、道徳的には悪いが、しかし精 神的にはよくなっている。己れを知らなかった人間が、己れを知る人間になっ ている。マクベスは行為において、忌まわしく、不面目に堕落しながら、感受 性と精神的真実性においてよくなり、劇のはじめには理解していなかったこと を、劇の終わりには理解するようになるのだが、アンジェロも、より恩寵の及 ぶところに近付いている。
公爵に向ってアンジェロの言う言葉を聞いてみよう。「このうえは…どうかこ の自白を以て手前が破廉恥罪の御審問にお易え下さい。このうえは、すぐさま 御宣告を下され、死刑に処せられますのを、無上のお慈悲としてお願い申しま する。(五幕一場)」公爵は死をもって彼を罰しない。複雑な終わり方である が、慈悲はしばしば正義よりも残酷たり得る。ある状況において、ただただ死 を願う人間を生かして置くことは慈悲ではない。
自分が悪を行っていることを知っているのは、自分が悪を行っていることを知 らないよりも、いいのか悪いのか。知っていることは、劫罰の可能性であり、 また救いの可能性でもある。
イザペッラは概して批評家に好かれていない。きわめて冷たいいやな人問と受 け取られている。どの編者もイザベッラのなすべき義務は明らか、すなわちア ンジェロと一夜を共にし、彼女の純潔を与えて兄の命を救うことであり、それ について大騒ぎなどしないことだと言っている。しかしリックス教授は、彼女 に対してそれほど批判的ではない。それは、たとえ彼女が純潔を与えても、ア ンジェロは兄の命を欲するからである。アンジェロにとって、後日予想される イザベッラの自分に対する告訴から身を守る唯一の方法は、すると言ったこと をしないことだからである。
数年前、一種のブーツレッグで出されたボブ・ディランの(公に発表されたど のアルバムにも入っていない)バラード「七つの呪い」は、本質的にアンジェ ロとイザベッラの物語を語っている。大きな違いは、イザベッラが、兄の命乞 いではなく、父の命乞いをするよう求められていることである。老ライリーは 馬を盗み、牢に入れられる。老ライリーの娘は、父が絞首されるという報せを 受け取り、金と銀を手に持って、夜を撤して馬を走らせる。判事は娘を見て、 金ではだめだが娘(の体)が父を自由の身に出来ると言う。しかしライリーは 娘に言う。「そいつはお前の体が欲しいだけだ。やつがお前に触ったら、俺の 体は身の毛がよだつ。馬に乗って逃げるんだ。」「お父さん、私が代価を払わ なきや、お父さんはきっと死ぬ。」その夕絞首台の影がゆれ、その夜代価は払 われた。翌朝娘が目覚めると、判事は無言、絞首台の木がしない、(首の折れ た)父の体が見えた。そんな酷い判事には、七つの呪いがふりかかれ…。間題 劇と見なされるこの劇を、教授は、キリスト教倫理と法とにかかわる偉大な劇、 今日各国で問題となっているセクシャルハラスメントの劇と捉え、この劇の持 つ倫理的、法的、社会的間題をさまざまな角度から論じた。劇の題名が『聖書』 に由来するものであるとの指摘で始まった講演は、同じ主題を扱ったボブ・ディ ランのバラード「七つの呪い」でしめくくられた。出来るだけゆっくり話しま しょうと言って下さった教授のご親切で、明瞭できれいな英語の講演だった。 (『中京大学学報』7月1日号の報告記事に加筆させていただきました。)




The Chukyo University Society of English Language and Literature
Last modified: Thu Apr 30, 1998

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