ミヒャエル・エンデの『モモ』における時間の解釈

柳沢 秀郎(大学院学生)



ドイツの哲学者カントによれば、時間とは「客観的」な対象として存在するものではなく、表象が対象を受け入れる時の、主観に内在する形式であるとしている。つまり、それ自身で在るものではなく、物事を測るための器の一つというのである。カントはこれを直観形式と呼んでいる。

一方、世の諺に「時は金なり」というのがある。時間はお金と同様に大変貴重であるから、むやみに浪費してはいけないという意味である。ここではしたがって時間と金が互いに似たようなものだという解釈が成り立っている。つまり、この諺では、時間をカントが否定している方、すなわち「客観的」な対象として扱っているのである。しかし我々人間は、時間とお金に対して同じ態度で接しているだろうか。実生活において一般に人は金を使う前に、これから使う金の使いみちは良いであろうか、結果的に無駄になりはしないかなどと考えたりする。自分が金を使った結果を先取りして考えているのである。

それでは時間に対しても同じことがいえるだろうか。否、実生活において、人は何か行動する前にこの行動は時間の良い使い方だろうか、などと考えたりはしない。時間という消費物をいちいち意識に浮上させたりはしない。空き時間を読書でつぶす時のようないわゆる「節」を設けられて初めて意識されるのである。すなわち、時間に対しては生活のほとんどにわたって、先取りして考えたりなどしないのである。

このように時間と金、両者の扱いは実のところ文字通りにとはいかず、大分違うようである。そもそも影も形もない時間を形相と質料を備えた金と同じように扱うのは、我々人間には無理なのである。

さて、そこで『モモ』における時間の振舞がどのようなものであるかが注目される。テ−マを時間に置いているこの作品において、また児童ならずとも至極難解な時間を、極めて対峙的に読者に突きつけるためには、直観形式と客観的対象のはざまを行き来している我々の時間に対する意識では不十分といえる。よってこの作品では、我々が日頃扱い慣れている客観的対象の側のものとして、時間を扱うことに読者が徹底できるような試みがなされている。それが時間の物質化である。要するに金と同じように時間にも形相と質料を与えるのである。『モモ』において「時間」は「花」に例えられる。そうすることにより、時間には本来ない属性である、目に見えるということと、手で触れるということを可能にしたのである。もはや読者にとって時間は、金と同じ態度で扱う「物」となった。主人公のモモが花に形を変えた「一時間」を持って地下道を走り回るのである。目の前につき付けられたのは、我々の見えぬところでひそかに絶え間なく流れている時間ではなく、まさに時間そのものなのである。もし、このときモモがマイスタ−・ホラから渡された物が、花ではなく、残り一時間にセットされたタイマ−であったらどうであろう。その手に握られて見つめる対象が、時間そのものであるのとタイマ−であるのとでは、差し迫る時間に焦るモモの感情にもいくばくかの違いがでてくるのではあるまいか。また、モモばかりか読者の我々も時間そのものから隔てられるため、時間との関わりがいささか希薄になりそうである。

使っているという意識を我々に呼び起こすためには、『モモ』で見られる時間の客観化、物質化が非常に有効であることがわかる。なるほど我々は、読者としての特権で時間をあたかもお金のように意識するようになるが、作品の中で、主人公のモモ、マイスタ−・ホラ、灰色の紳士を除いた町の人々は、時間が花であることを知らされないのである。変わってしまった自分の生活に対して、「時代が変わったのさ」と口々に言うのである。これは、まさしく実生活における我々と同じ程度の時間への態度である。そこで、我々読者は時間を物質のように意識しながら、意識していない普段の我々自身を町の人々の中に見ていることになる。知らぬ間に生活の端々で時間を盗まれている彼らを通して、読者もまた自分が多くの花を盗まれていることを実感するのである。

一様に流れている時間を早く感じたり、遅く感じたりということは、我々の生活ではよくあることだが、この作品のように配給される物資と考えると、また違った時間に対する接し方ができそうである。時間への接し方が変われば当然生活も代わり、延ては時代も変えられるというのであろう。何しろ時代は時間の積み重ねなのであるから。


The Chukyo University Society of English Language and Literature
Last modified: Thu Apr 30, 1998

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