1995年6月21日から6月24日までの4日間、スウィフトの没後250年を記念しての国際会議がスウィフトの母校であるダブリンのトリニティ・カレッジで開かれた。
学際的な国際会議なので、出席者の国籍も専攻分野も各種各様だった。国別にいうと、アメリカ、ドイツ、カナダ、フランス、イタリア、アイルランド、ニューズィーランド、スイス、日本等で、発表者は主催国であるアイルランドの研究者の外は、アメリカ人とイギリス人が多かった。日本からは4人だった。専攻分野は、当然のことながら、英文学が多かったが、外には精神医学、西洋思想史、宗教学、哲学、政治学、心理学等多彩だった。スウィフトは32年間ダブリンの聖パトリック大生堂の主任司祭を務め、晩年には聖パトリック精神病院の理事を兼務し、アイルランドの愛国者といわれるまで政治に関与していただけに、英文学以外の研究者が関心を示すのは不思議ではない。
日本から行った4人のうち、3人は英文学専攻だったが、残る1人の水田 洋氏はアダム・スミスの研究家である。氏は「アダム・スミスとスウィフト」というテーマで、研究発表を行った。私の発表は3日目のトップで、テーマは「モラリストとしてのスウィフト」である。モラリストというのは、いうところの道徳家のことではない。モンテーニュやラ・ロシェフコーやラ・ブリュイエールのように、短い断章の形で人間のありようや、人間がいかにあるべきかを迫求し表現していった思想家のことである。スウィフトはとりわけラ・ロシュフコーを愛好した。私のはこの側面からの発衣だった。
ところで、文学の場合、われわれ日本人が国際会議で発表するのは容易ではない。スクリーンとかスライドとかを使うわけではない。文学の発表者がオウバァヘッド・プロジェクターを駆使したなどという例を間いたためしがない。1から10まで言葉で勝負しなけれぱならない。それだけに、準備が肝心なのである。
私の場合、今回、発表原稿の外に聴衆に配る要旨を用意した。だが、発表前に要旨を配ったほうがいいものかどうか、発表の前日まで迷った。配ったほうがいいという者もいれば、その必要はないという者もいる。いずれも納得のいく根拠に乏しかった。発表の前日、アイルランドに行くたびに訪れるキルケニー(スウィフトが通ったグラマー・スクールがあるところ。ダブリンの北西約30マイル)のブリジッティさんのお宅(この家の2階の北隅に、スウィフトが寝泊りしていた部屋がある)で、ケムブリッジ出身でイギリスの文部省に務めていたプライスさんという人に会った。彼に私が困惑している問題を話すと、彼は「要旨は配らないほうがいい。ケムブリッジでもオックスフォードでも、発表のさい要旨をくばることはしない」といった。そのほうが、スピーカーと聴衆との間に緊張感も高まるからだろう。私は彼の勧めに従うことにした。要旨は処分した。
国際会議で、その次に厄介なのは発表後の容赦ない質問である。これには、かなりの備えをしてないと対応できないと思う。日本の学会での場合と違って、聴衆は質問を次から次と浴びせてくる。私は自分なりに想定質間を30問用意し、その回答も頭の中で考えておいた。私にこのような準備をする必要を感じさせたのは、4年前の体験である。1991年私ばダブリンのアイルランド詩人協会主催のポェトリィ・リーディングで、英訳俳句の朗読をやった。ボェトリィ・リーディングをしたのはアイルランドの詩人2人と私の3人でアイルランド詩人協会本部のロビィは満員だった。3人の朗読後、質問はもっぱら私に向けられた。そのさい、矢継ぎ早の質問の答えに窮して、私は最後に立往生してしまったのである。俳句を外国人に理解させるのは難しい。その折、私はしみじみと実感した。
この失敗が私に今回の想定質間を思いつかせたのである。おかげで、発表も質疑応答も滞りなく済ませることができた。 トリニティ・カレッジの審査を経て、発表者のリストが決まったのは、ほぼ1年前である。それから発表の当日まで、あれやこれや絶えず頭の中で意識していただけに、終わって司会者の笑顔に出会えた時はホットした。文字通り、肩の荷が降りた感じだった。終了後キャンパス・グリーンの間を通って学寮の宿舎に帰り、一眠りしてから、ゲイト座へゴゥルドスミスの芝居を観に行った。