中京大学英文学会 講演会 報告

「英語の発音とコミュニケーション」
 では、どのような発音を心掛けたらよいのか。日本語式に発音すると理解してもらえないことがあるので、単語では特に第一強勢の位置に気おつけなければならない。英諾の母語話者と同じ発音である必要はなく、日本語なまりがあってもよいが、重要な違いには十分注意を払うべきだ。
                                   〔『中京人学広報』より転載〕

スレイター先生その後――中京大学英文学会講演会報告 に代えて
                                            栂  正行
 チャールズ・ディケンズ研究にかけては、そしてディケンズ世界を楽しむことにかけては第一人者マイケル・スレイター先生が中京大学で講演をされた。それをオフィシャルにまとめると、
中京大学英文学会・特別講演会 
  >5月26日(金)名古屋
  >講師ロンドン大学教授・マイケル・スレイター博士
  >演題「チャールズ・ディケンズのロンドン、及び作品の朗読と解説
    ――『オリヴァー・トウイスト』と『荒涼館』から」
 第一部では、ロンドンの俯瞰図、牢獄、貧富の差を際だたせる対照的な建築物と地域、そしてディケンズの手法にもたとえられるトーチを持つ警官などをとらえた二十枚のスライドによって、作家と同時代の、日々の変貌著しいロンドンの姿が再現された。第二部では、『オリヴァー・トウイスト』(オリヴァー)と『荒涼館』(チャドバンド)から、スレイター氏による朗読と解説が行われた。スライドや資料もあり、司会、会長挨拶、質疑を含め、すべて英語による講演会・朗読会のさまざまな展開の可能性を示す、今後の学会活動に示唆多い試みとなった。」
ということになる。しかし講演会の醍醐味はいずれにあってもその前後のエピソードにある。ディケンズは笑いの王様。その研究者もきっとそうと期待をしていたら、やはりいろいろとあった。その一部。さしさわりのほとんどないことを以下に。
 講演会場に案内する途中、センタービル内の売店の前あたりで先生は足を止める。ガレリアを眺める。これなら大丈夫だよ、こんな立派なビルがあれば、おまえさんの大学はね。

 今、日本の大学はいろいろと自助努力をしなければならない、日本の大学も大変ですよ。日本でもイギリスでお会いした時も、そう話していたことに対するそれが先生の答えであった。会場は盛況。内容は上記の通り。会場から英語による質問が二つ出た。

 場を職員食堂に移して懇談会。スレイター先生はその昔、一度来日され、広島大学などで講演。その講演を聴いていた学生が今はディケンズの研究者になっているという。その後、先生はスライド・ボーイに礼を言いたいとおっしやる。学会幹事のK君のところへつつと歩いて行き話をされる。しばらくして、わたしはここにいる全員と話をしたであろうかとおっしやる。パーティーでは全員と話をするものかと学習。

 それにしても女子学生諸氏は健闘した。イギリスに出かけた経験のある彼女たちは、先生に、ここに行きました、あそこに行きましたと話しかける。いかにもディケンズ的状況だ。話しかけられぬより話しかけられたほうがゲストにはどれだけありがたいかわからない。下手をすると、いや下手をしなくても、講演者と聴衆は二度と再び会うことのない関係なのだから。話してみなければ白分の言葉がどれほど通じるかも通じないかもわからない。日本人どうしが日本語で話し合うときと同じだ。

 翌日は万松寺通りに出た。ここは西洋人に受ける、とだれかが言っていたのを真に受けたのだ。だが受けない。ラップが聞こえてくると、おいおい、日本のトラディショナル・ミュージックが聞こえるよ、と先生。要するにお気に召さぬということだ。この通りが受けると言った人の顔が浮かぶ。ものごとはすべてじっくり自分で考えないと失敗する。自分で考えての失敗なら納得いくが、安易な選択の結呆の失敗は後味が悪い。

 昼食後、Mデパートヘワイシャツ探し。やっとあった。しかし値段が約2万7千円。「オウ、マイ、ゴォッド」と先生。感嘆表現の生の用例に接する。思わぬところからMデパートのキングサイズ売場が少し安めと知り駅前に急ぐ。あった。なんとか7、8千円でおさまる。以後、私もバーゲンの時などこの売場を覗くことにしている。最後は花。京都で待っているある先生とその奥様に花を買っていくのだという。

 スレイター先生の英語はすべてジョークやひねり、果ては悪意のないイヤミつきの典型的なイギリス人英語なので、楽しいやら疲れるやら大変であった。ョーロッパも、そしてロンドンも狭いところだから、そうやって言葉でガス抜きをしていないと殴り合いの喧嘩になるのかもしれない。拙文をものしながらサッカー中継を見ていてふとそんなことを考えた。

 スレイター先生の来日期間中、都合五回先生の独演を拝聴した。メイン・イヴェントは中京大学来学一週間後の京都のディケンズ・フェロウシップの講演。演題は「ディケンズとジャーナリズム」。詳細はディケンズ・フェロウシップ会報に主催校京都大学の佐々木徹先生がエピソードを交えて報告されている。

 滞日中のお話はどれもこれも味わいのあるものであったが、なんといってもよかったのは来日直後の『オリヴァー・トウイスト』論。飛行機に長時間揺られやっと着いての異国でのセミナー。そのあわただしさと緊張感が内容を濃密にした。それが自国にいる時は国文学者の先生を外国文学者風に見せた。妙な話だ。私が何度かイギリスで先生のお話を伺った時は、会場がロンドンの中ということが、その講演内容に負の作用をももたらしていたのかもしれない。日本を含め外国ではまだまだイギリス文学はおもしろい。ディケンズもシェイクスピアも貢献している。

 スレイター先生はもちろんイギリス英語のネイティヴ・スピーカーとしてではなく、英文学者(むこうで言えば国文学者)としてディケンズの話をしに中京大学にいらした。今はまだ学生諸君の何人かにとってはイギリスから来たイギリス人ぽいおじさんでしかないかもしれないが、それはそれでよいではないか。将来彼らが仕事について海外に出た時、あの時のおじさんの強烈な印象が何かのかたちで甦れば、学会幹事のみなさんがわいわい大騒ぎして準備してくださったのも、そして司会、会長挨拶、主催者側パーティー開会と閉会の挨拶が、英語で行なわれたことも無駄ではなくなるというものだ。どの作家の研究者であれまた言語学者であれ、こういうその存在白体がひとつの印象のかたまりとなるような外国のおじさんやおばさんに、なんとかまた来てはいただけないものだろうか。

 ネイティヴ・スピーカーの英論はどうであるべきか、どういうネイティヴ・スピーカーの英諾で勉強すべきか、日本人はどのような英語を教えるべきかといった間題を私はついつい上記のように語ってしまう。これを制度の間題とからめて考えるのはまた別の機会にゆっくり。

 間題は、世の中、よいものが必ずしも認められるとは限らないという点だ。英語についてもこれが当たる。よい英語、よい英語と言っても、しだいに悪い英語になっていってしまう。悪い英語から始めたら英話ではなくなってしまうということに気づいている人は少なくないはずなのに。日本人がただ日本人であるという理由だけでは美しい日本語の教師たりえぬよう、ただ英話のネイティヴ・スピーカーであるという理由だけでは敬愛に値する美しい英語の教師たりえぬことはだれもが知っているはずなのに。

 イギリス児童文学におけるファンタジー:『もうひとつ』の源流
                                     梅花女子大学教授 三宅興子氏
                                                    小田原謡子
 11月25日午後3時より、中京大学英文学会・大学院英文学専攻共催で、梅花女子大学教授三宅興子氏を講師に、「イギリス児童文学におけるファンタジー:『もうひとつ』の源流」と題される講演会が、センタービル0804教室で開催された。

 神話・民話を母胎として、ヴィクトリア朝中期以降、Lewis Carroll の Alice's Adventures in Wonder land (1865)、Charles Kingsley の The Water-Babies (1863)などの作品を生み、19世紀末に完成したファンタジーが、やがて魔力を失い、魔力の衰退から、日没になると魔力を失う妖精を日常世界に登場させる、言うなればくエブリディ・マジック>を遊びの延長で描いた Edith Nesbit の Five Children and It 、また全く魔力を持たない妖精を登場させる Mary Norton の The Borrowers、あるいは Lucy Boston の Children of Green Knowe などが生れたとするとらえ方、いわばファンタジーは魔力の衰退のはじまりというとらえ方に対する疑間から、氏は児童文学の世界では面白くないものと否定的に見られてきた教訓物語に目を向ける。

 孤児となった女の子が、その美徳の故に村人に慕われ玉の輿に乗るという、女の一生 Goody Two-Shoes (1765)は、ファンタジーを魔力の衰退ととらえない方がいいのではないかと氏に思わせた最初の作品である。中世から近世への過渡期の村で、両親に死なれ弟と二人残された女の子が、教会の牧師にもらわれて、それまでとても貧しくて満足に両方そろった靴がなかったのが、はじめて一足そろった靴を買ってもらい、嬉しくて「まあ素敵、靴二つ」と叫び、それがその子のニックネームとなり、この本の題名となったものである。面白いことに、独学で字をおぼえ、村人に字を教えて慕われ、犬や鳥が迷っているのを助けて世話をして、動物にも慕われ、功成り名をとげて死んでいくという、ジョン・ロックの教育観、理性による迷信の解明などの見られるこの物語が、長年読み継がれていくうちに変っていき、はじめぶ厚かった本が薄くなっている。残ったのは、主人公が孤児であること、姉弟が別々に生きること、動物がなつくこと、弟がどこかの島に流れ着き、財宝を発見して持ち帰ること、結婚すること等であり、もとの筋では主人公が功成り名を遂げて死んでいくのが、後の版では主人公が結婚するところで終るという風に、昔話調のめでたしめでたし形式になっている。読者である子供たちは、文字をおぼえさせるという目的、早起きのすすめ等、作者の意図した教訓部分を読みとばし、面白いと思ったところを読んだのではないか、そして読者が面白くないと思った教訓部分が削られて、面白いと思った部分が残ったのではないか。いわば読者は教訓物語ではなく、物語の中に隠れていた物語構造を読んだということなのではないか、と氏は指摘する。

 想像力を否定した「教訓のおばけ」とも言うべき Sara Trimmer の The History of the Robbins (『こまどり物語』、もとの題は Fabulous Histories )(1786年)も、年月が経つうちに、作者の書きたかった「動物をかわいがらなくてはならない」という、人間の祝点からの教訓部分消えて、こまどりだけの本になっている。

 身近にあるものの擬人化が18世紀末に始まり、19世紀に隆盛となり、ある女の子の家で作られたピンクッションが様々な人の手に渡る、Mary Ann Kilner の「これは架空の物語です」のことわり書き付き The Adventures of a Pincushion (c. 1780)の成功後、Mary Misher の The Adventures of a Doll (1816)等の人形の物語と、動物ファンタジーにつながるものと、二つの流れが生れる。

 雨で家の中に閉じこめられた暇つぶしに、集まった人たち一人一人が自作の物語を語るストーリー・テリングの遊びから生れた Dorothy Kilner のThe Life and Perambulations of a Mouse (c. 1783−84)は、「○○ちやんは火遊びしたので火事になって死にました」式の、非常に残酷な面のある、当時流行した物語スタイル、警告物語であるが、キャラクターがあること、登場する子供の姿が生き生きと描かれている点で他の作品よりすぐれており、子供が読めば子供の面白さ、大人が読めば大人の面白さがあり、相当幅広い読者を持ったと思われる。いかにもネズミらしい行動の中に、「(チーズのにおいにひかれて)同じところに度々行ってはいけない」等、ネズミのサバイバル哲学が語られ、単なる教訓物語とは言えない視点がある。

 ニンブルというネズミを主人公に三匹の兄弟ネズミが登場し、時には作者が、時にはネズミが哲学を話る。危機に瀕しても語り手ニンブルだけは、間一髪危機を逃れ、体験に学び、冒険の度に教訓が語られる。日常生活をネズミの目で見る異化行為の面白さがある。ネズミの属性を生かし、ネズミをネズミらしく、毎日生きのびるためにいかに食物獲得の苦労をしているか等、ネズミの世界を描くと同時に子供たちの姿も生き生きと描写している。ネズミが様々な家庭に出入りするので、その家の両親、召使いの姿が描かれ、女中ベティの語る「辛せはお金では買えない」という哲学をネズミが聞いている時、それはネズミが聞くという形をとりながら実は作者が読者に聞かせているのであり、ネズミの立場、人間の立場から、それが立体的に語られている。また、ネズミのしっぽを紐で縛ってぶらさげている子供に、父親が「そういう動物を苦しませてはいけない。一挙に殺せ」と言い、子供が手を放すと下で待ちかまえていた猫がパクッと食べるといった場面に、当時の動物に対する考え方がうかがえる。なお、挿し絵に描かれているネズミは、今日の挿し絵画家ならネズミの視点から描くだろうが、当時の挿し絵のネズミは、等身大で大変小さいこともつけ加えておく。

 やはりドロシー・キルナーの The Rational Brutes: or Talking Animals (1799)には「これは嘘です」ということわり書きがある。物の言えない動物が夕方一堂に会し、それぞれの立場から人間がいかに残酷かということを語る。生命ある動物をいじめてはいけないという動物愛護の教訓であるが、別の視点から見る面白さがある。物は言うけれども、動物の属性は動物の属性そのものである。このような作品を読んでいると、どこまでがリアリズムでどこからがファンタジーなのかが暖昧になってくるが、そのようなレッテルをはることはあまり大事なことではないとも思える。

 Richard Henry Horne の Memoirs of a London Doll (1846)には、「これは嘘です」ということわり書きはない。人形が菓子職人の家から、貴族令嬢、肖像画家の娘、そしてイタリア人の大道芸人へと様々な人の手に渡り、様々な生活を経験し、それが人形の冒険というより、そのままロンドンに住む人たちの案内記、労働案内、ロンドン案内となっているところが面白い点である。

 このような物語の延長線上に、遊びから出てきたネズビットなどのファンタジーがあるのではないか、「もうひとつ」のファンタジーの源流を、教訓物語、その中でも子供たちによく読まれたものの中に見ることが出来るのではないかと氏は語り、講演はご持参のヴィクトリア朝の貴重な絵本の回覧も含め、講師の暖かいお人柄とユーモアに包まれて終った。


 氏の講演で印象的だったことの一つは、お話の面白さもさることながら、思わずほほえみをさそわれないではいられない氏のお人柄であろう。参会者に回覧して下さるためにお持ちになった絵本の中には、小さな人形の形をした冊子となっているものもあったのだが、そういった貴重な絵本を回覧して下さる時に「古くなってこわれやすくなっておりますので、気をつけてご覧下さい」という注意の後で、ある本がこわれていることに気がつかれたのか、急いで「これなどはもうこわれてます。オホホホホ」と関西イントネーションでつけ加えられた時の何ともあたたかみのある語り口は、聴衆のほほえみを誘わないではおかないものであった。
 また、脱線でお話し下さった「自分の目で見ることが大切」というご自分の経験も大変興味深いものであった。1ドル360円、外貨持ち出しは200ドルまでという時代には、なかなか外国へ行くことも出来なかったが、外国へ自由に行けるようになって、自分で資料にあたることが出来るようになり、文学史に出てくるものを自分の目でたしかめることが出来るようになってから、いろいろ発見があった。氏より上の世代の人たちは自分で資料にあたることが出来なかったため、資料に直接あたらないで書かれた間違いを、読んだ人がそのまま踏襲することもあり得た。誰かの言ったことを鵜呑みにせず、白分で確かめることが大切というお話である。ある時『児童文学辞典』を出版するというので、それまでの辞典では間違っていたことを直し、やれやれと思っていたら、出来あがった辞典には、やはり同じ間違いが載っていた。どうしたことかとあわてて出版社に確かめたところ、その会社の「チェッカー(間違いがないかどうか調べる人)」が、他のどの辞典にも同じことが載っているので、氏の訂正した事実の方が間違っているのだと思って、もとの間違いにもどしてしまったものとわかったという、笑い話のような本当の話など、実に臨場感あふれる熱のこもったお話であった。


 現代英語におけるいくつかの語彙的発達
                     シェフィールド大学教授  ノーマン・F‐ブレイク氏
                                          伊藤忠夫 訳述
はじめに――検討のための索材、扱いの観点等にっいて

 <素材の収集>
今回の講演のための素材は、私が主として英国の新聞、大体において、タブロイド紙 tabloids ではなく、普通サイズの新聞 broadsheets を読んでいて集めたものである。新聞の他にはテレビ。また、英語の発達についての学術的研究も参考にしている。

 <3つのレベル>
 従来から、語彙に関して言語には3つのレベルがあるとするのが一般的だった。3つのレベルとは、高尚な elevated レベル、中立的 neutral レベル、ロ語的 colloquial レベルである。中立的レベルは、口語的レベルを基にして補強されるよりも、高尚なレベルから補強された。今日では、高尚なレベルは、以前よりずっと用いられることが少なくなり、そのレベルからの中立的レベルの補強は、特殊な場合に限られるようになっている。だから、中立的言語の更新は多くの場合、上からなされるのではなく、いわば下からきていることになる。ただ、日本では教えられる言語としての英語に重点が置かれているので、書かれた形に一定のレベルの形式性が保たれていることになる。

 <変化のタイプに大きい変化はない>
英語が受けてきた語彙的変化は、タイプとしてみると、変わっていない。変化のタイプとしてよりも、その剖合や具体的例における変化の方が大きい。変化に対する態度について言うと、以前より、たとえばシェイクズピアの時代より、現在の方がいくぶん変化に対して批判的な場合がみられる。私のアプローチは、大体において記述的であり、イギリスで今起こっていることについてなにかを感じとっていただくことを目的にしているので、変化を是認するとか非難するとかするつもりはない。

 <語彙変化の3つの側面>
 この講演では、3つの側面に焦点をあわせる。
   1)新しい語彙項目の形成
   2)隠れていた語彙項目の容認用法への上昇
   3)談話に起こっている変化
 外来語は扱わない。外来語は、なにかのきっかけで現われ、すぐに消えてしまうものがおおい。最近の実例では、今はもう見られない perestroika と今もまれに見られる Ayatollah (Ayatollah Khomeini) がある。

1.新しい語彙項目――1)混成語
 新しい語彙項目の形成については、5つの種類を取り上げる。混成語 blend、合成語 compound、機能転換 functional shift、頭字語 acronym、そして形態論レベルで起こっている変化である。
 混成語というのは、それぞれの一部分が省略された2つの語が1語になるものである。これには、多くの人が眉をひそめる。Independent 紙から拾った実例を2つ紹介する。

  1. blaxploitation (<black+exploitation); 'the exploitation of black people by whites and industries run by        whites'. 用例:‘such Seventies blax‐ploitation films'. 映画関係の専門用語となっている。
  2. skuit (<skirt+suit); suits in which the bottom part is a skirt rather than trousers.英国のメンズ・ウェアの大   チェーンである HorneBrothers の重役が作ったものらしい。最近は用いられているのを見ない。

 なお、bloadloid (<broadsheet+tabloid) も、混成語である。


2.新しい語彙項目――2)合成語

 合成語も、混成語とともに、従来から新語の源泉である。大多数は口語から生まれ、多くの場合略式的 informal である。
 (1)  scud を第一要素とする語がある。Scud は、湾岸戦争のときサダム・フセインが用いたミサイル。
    scudbuster 1. the Patriot missiles which were deployed against the Scuds.
    2.  General Norman Schwarzkopf,the commander of the Allied forces in the Gulf War.この意味の場合には、scud は、一般的にはイラク人、特殊的にはサダム・フセインを含むずっと一般的な意味になっている。
    scudstud: handsome reporter who was covering the Gulf War.
どちらの語も、生き残ることはないだろう。
 (2)  raghead: used to refer disparagingly to the Iraqis.湾岸戦争以後見られなくなっている。


3.新しい語彙項目――3)機能転換
 英語においては、屈折組織 inflectional system が消失したので、機能転換を新語の源泉として活用する。これは、ある品詞の語を別の品詞に転換するものである。
 (1). 機能転換は、多くの人の間で反感を呼び起こすことがある。明白な名詞語尾、たとえば -ion -ness をもった名詞が動詞に転換される場合とくにそうだが、それでも、頻繁に使われるようになると容認される傾向がある。
 (2). <機能転換に対する反感を示している例>
 Guardian 紙に、“Noun but the brave”というタイトルの社説で次のような意見が述べられた(29 Dec.1990)。筆者は、機能転換を攻撃し、自分も example を動詞に使ってみせて、'let us examplethat for you’という文で始めて実例のリストをあげている。例はすべて名詞を動詞に転換したものである。筆者は、BBC が「番組は 'studio-produced' である」と言っていると攻撃し、それは‘the production of studies’を意味するはずだという(私は、そのように理解する人はほとんどいないだろうと思うが)。例を続けると、In football goals are gifted and in cricket batsman can top-score. Matches are fixtured and goals can rifled.The chairman of ICI said in his address to shareholders‘We are exiting the year'. At Westminster the verb to doughnut is used and、Americans use to caveat. The chairman of the Chrysalis Group referred to 'expensing a significant investment'. and a Yorkshire businessman complained he was expected to diarise his appointments.

筆者は、やがて人はレストランで wine that was room-temperatured を注文することになるだろう、といって文章を終えている。(一つ指摘しておくと、名詞に適当な動詞接尾辞 verbal suffix を付けている場合は、機能転換ではない。)
 (3)  attrit (<attrition):これはもとの名詞を切り詰めた形。それをさらに機能転換で動詞に用いることがある: 'targets are being attrited'.
 (4)  Concorde: 'I could Concorde out after the Test’(Independent, 28 Aug, 1993)

 <句動詞 phrasal verb の機能転換>
 現代英語の一つの特徴は、句動詞の使用である。句動詞とは、go take のような動詞に on, up, with のような副詞的前置詞といえる不変化詞 particle を一つあるいはそれ以上付けて成り立っているものである,たとえぱ、kick を取り上げると、kick up, kick off, kick in のような句動詞が頭に浮かぶ。

句動詞の意味は、もとになっている動詞との関わりで言うと、透明な場合もあるし、不透明になることもある。多くの場合、意味が延長して、比喩的な用法が生ずる。

 たとえぱ、句動詞 to kick up a fuss 'to make a vigorous complaint’は、もとの動詞 kick の基礎的意味‘to administer a blow with the foot’とはあまり関係がない。それでも、to kick は an aggressive act であるから、いくぶんかは透明性がある。他方で、to kick off は、フットボールやラグビーでは、もとの動詞の意味と密接に結びついているが、しかし、それが延長されて‘to start (anything)' という意味になり、疑間文‘Who is going to kick off?' は、フットボールの場合だけでなく、セミナーでだれが最初に話すのかに関連して用いることもできる。この場合には、結びつきは不透明になっている。

 英語の歴史を見ると、句動詞は、14世紀から用いられはじめて増加し統け、今日非常によく見られるようになっている。いちばん多く見られる型は、「単音節の動詞十単音節の不変化詞」である。これがまた、すぐに名詞に転換される型でもある。現代英語の一つの特徴は、句動詞から作られる名詞の増加である。(書かれる場合には、名詞は動詞と違って、普通ハイフンで結びつけるか、一語に書かれる。)(1)

 (5)  kick-off: 上の疑間文‘Who is going to kick off?' を‘Whose kick‐off isi t?' にすることができる。
 (6)  kick-up 実は、まだこの用例には出会っていないが、もし‘There was a great kick-up last night' というような表現に出会っても驚かないし、どういう意味かをすぐに理解するだろう。

 <句動詞の機能転換の外国人にとっての問題>
 英語を母語としない人にとっては、これらの動詞と対応する名詞は難しい。それは、名詞が対応する動詞とはまったく異なった意味をもつことがあること、名詞と動詞それぞれがさまざまな異なった意味をもつことがあること、そして、名詞や動詞が対応する語をもたずに孤立して存在する場合もあるからである。

 この最後の場合には、われわれは名詞が動詞に由来すると考えているので、対応する動詞がないのはおかしいと思い、新しく動詞を作り出そうとすることもある。例として、to pick up, a pick-up を取り上げる。

 (7)  pick-up 動詞 to pick up は‘to arrest or to take into custody for questioning (by the police)' という意味ももっが、名詞が対応する意味をもつことは普通ではない。
 (8)  pick-up: 'a chance encounter with a previously unknown member of the opposite sex or even now the same sex(with the assumption that sexual intercourse will follow)'.動詞にもこれに対応する意味がある。しかし、動詞には名詞が持たない、'to collect,fetch (a person or thing) by appointment' という意味があり、これは完全に中立的な意味である。だから、この二つの意味はしっかり分けておかなければならない。名詞が性的な関係の意味をもって用いられるので、この動詞の使用は、混乱を生む可能性が相当あることになる。
 (9)  pick-up: 'free lift in a car or lorry'. これはヒッチ・ハイカーによって用いられる。動詞には対応する意味はない。pick up するのは、ドライバーだからであろう (10). pick-up: 'small truck or van'.動詞には対応する意味はない。
 (10) pick-up: 'small truck or van'. 動詞には対応する意味はない。
 (11)  動詞でも、used of the acceleration of a car or other vehicle であるが、名詞の方がよく用いられる。
 (12)  pick-up: 動詞でも、used to refer to a tonic which will make its taker feel better であるが、名詞のより多く用いられる形は、pick-me-up である。
 (13)  pick-up: 動詞でも、used of the reception of radio waves であるが、この場合は、動詞の方が一般的に用いられる。

 以上のように、それぞれがなんらかの形で特殊化しているけれども、一応 pick と up の基本的意味と結びつけることができる。困難なのは、どの意味が現在よく用いられるのか、どの形が許容されるのかを知ることである。

  <句動詞の機能転換にならった新しい名詞の形成>
 句動詞をもとにした名詞の形成が行なわれるようになると、それは、対応する句動詞をもたない他の名詞を作り出すパターンを設定することにもなる。

 (14)  white-out, grey-out, brown-out, dim-out: これらは black-out を模倣したものである。
 (15)  love-in, pray-in, teach-in,swim-in: これらは sit-in を模倣したもの。 このパターンは、口話レベル、スラング、多くの丁寧さを欠く形態で非常によく見られる。
 (16)  balls-up. bog-up. screw-up: これらにおける -up は 'mess, total disorganisation' を意味する。

<2音節の語を含む句動詞の場合>
 (17)  poke-around, potter-about: 対応する句動詞 poke around, potter about.
 (18)  walk-about, hang-over, take-away: hang-over には対応する動詞はない。他の二つも名詞の方が頻度が高くなっている。

<句動詞に由来する名詞の複数形>
 複数形は、-s を付加する。今では複数形でしか用いられないものもある。
 (19)  left-overs: 'what remains of the food after everyone has finished eating'. 例:We'll finish off the left-overs tomorrow'.
母音で終わっている語の場合には、アボストロフィが用いられることがある:lean-to's, lean-tos .この場合は、前者の方が好まれる。

 <句動詞についての余説>
 ついでに指摘すると、句動詞と単独の動詞とで、意味的に違いがない場合がある。たとえば、大多数の話し手にとっては、'We'll finish off the left-overs tomorrow’と 'We'll finish the left-overs tomorrow' の間には違いはない、ただし、句動詞を使う方が多いのは確かである。英国では、句動詞がアメリカ語法だと考えられることがある。たとえば、to meet に対して、アメリカ人の場合には、to meet with が用いられ、さらには to meet up with さえ見られ、その方が多いようである。しかし、単独の動詞と意味的に差のない句動詞は、英国でも何世紀も前から用いられている。たとえば、Hamlet (3. 4. 29-30) では、marry ではなく marry with が用いられている。

 <機能転換で生じた名詞の機能転換>
 英語における単語の多くと同様に、句動詞を機能転換させて用いられる名詞がさらに、文法的に異なった機能で利用されることがある。
 (20)  walk-about (<walk-about) これは名詞が副詞に機能転換した場合で、to go walk-about という表現に見られる。
 (21)  clip-on (<to clip on):この場合は形容詞への機能転換である: clip-on lenses. さらにこれから転換した名詞 clip-ons は、referring to lenses which can clipped on to the main frame of spectacles である。
 (22)  tumble-down (<to tumble down):これも形容詞lの場合:a tumble-down house. さらに名詞 a tumble-down としても用いられる。
 (23)  live-in: これも形容詞: a live-in partner. 動詞の意味は、'to share a house with a member of the opposite sex as husband or wife'. 名詞の例にはまだ出会っていないが、'Is she bringing her live-in with her?' のような使い方で、すでに確実に存在しているだろう。
 (24)  sell-by: これは食料品に、たとえば 'Sell by July 17' のように表示することから生じたもの。形容詞:the sell-by date. まだ 'Have you done the sell-bys yet?' のような疑問文を聞いたことはないが、きっとすでに用いられているだろうし、文脈が明碓なら理解するのに困難はないだろう。

 <意味が異なる put-in タイプ と input タイプ>
 句動詞から機能転換した名詞は、同じ語基に同じ形の接頭辞が用いられている名詞と必ずしも同じ意味をもつとは限らない。
 (25)  input: refers to information or any kind of general contribution which is fed in to some plan or orther activity.
     put-in: refers to the acUon of putUng a ball into the scrum in the game of rugby.
 (26) outbreak: refers to the start of some disease such as small-pox.
     break-out: refers to the act of absconding from jail.
 向じことは、uplift: life-up offprint: print-off についても言える。

 形の上では、句動詞の機能転換と似ているが、第2の要素に不変化詞ではなく別の品詞を用いるものがある。副詞の例:know-how,say-so. 同じ構成で形谷詞として用いられるもの:come-hither,bring-together.

<機能転換による強調語>
ティーンエイジャーの間では、機能転換によって新しい強調語 intensifier を生み出すことが頻繁に見られる。
 (27) 強調語としての well, real: well good,real good を日常的に使う人々もいる。
 (28) 副詞としての good: 'I did it good' もよく聞かれる。
 これらの用法は、以前から口語で用いられてきてただ表面に現われてきただけなのか、あるいは、部分的にはアメリカ語法に影響されて新しく生まれたものであるのかは、はっきりしない。
 ティーンエイジャーの語彙の別の特徴は、'good' とほとんど向じ意味なのだが、たくさんの形容詞を使うことである。たとえば、brill (<brilliant),mad, wicked である。

4.新しい語彙項目―― 4)頭字語
 頭字語は、社会の特定の部分や個人的変異に対して特定の姿勢を示そうとする言語の特徴の一つである。それらは、解読するのが非常に困難なことが多い。新聞を読んでいて、背景に親しんでいないので、解きほぐすことができない頭字語にいつもぶつかる。(2)
 (1)  AIDS, HIV: これらはもとになっている語にほとんど取って代っている。

戦争は、一時的に広く用いられる頭字語を生み出す。
 (2)  KIA: killed in action..
 (3)  HUMVEE: 発音どおりに綴られたもの。正しくは、HMMWV:High Mobility Multipurpose Wheeled Vehicle 湾岸戦争からきたもの。
 (4)  Buff: Big Ugly Fat Fellow or any other F word.B-52 爆撃機をさす。
 (5)  Unprofer: United Nations Protection Force. ボスニア紛争から。
多くの頭字語は、特定の必要から生まれ、必要なくなればすぐに消えてしまう。

5.新しい語彙項目――5)接頭辞と接尾辞
  く接頭辞〉
 多くの接頭辞が英語から消えたが、否定の接頭辞は最近ずっと広く使われるようになっている。Philip Larkin の詩に見られるように文学作品に用いられたが、今では会話でもよく使われる。その理由は、ある概念の意味的に反対の語が、同じ語彙彙項目に否定の接頭辞を付けた語でなく、別の語彙項目の場合があることである。

 たとえば、fat. tall, rich, freedom に対して反対の意味の語は thin, short,poor, slavery であろう。しかし rich と poor には無限の段階がある。ある人が rich ではないが同時に poor でもないと言いたい時、'He is poor' と言うことはできない。'not rich' というのが普通だが、今日では次第に否定の接頭辞を用いるようになっている。
 (1)  unrich: means that he is not rich without implying that he is poor.unpoorにはまだ出会ったことはない。
 (2)  unfunny: rich:poor について言えることが funny:sad についても言える。
 (3)  unDutch: テレビで、あるインテリアについて言われたもの。同じことが、名詞と分詞l形容詞にも見られる。
 (4)  unfreedom: 'the absence of freedom'.
 (5)  unhero: 'a person exhibiting the absence of heroic qualities'.
 (6)  unpestered: means the absence of being subjected to unwanted visits.
 例:How lucky you are to lead such an unpestered existence.
 (7)  undisturbed: 小説 Household Words に、亡くなった夫のかつて寝ていたところを見ての表現:His bed was undisturbed. これらの否定語は、満たされない期待に焦点をあてる点で有用である。
 (8)  non-person: この語は非常に広い範囲の意味をもっている。
 (9)  non-starter: 同じようによく聞かれるが、意味は、'a project or a proposal which has no chance of being accepted'.
 (10)  non-professional: means that he does not belong to the professional class
     un-professional: means that he does not behave in a professional manner.
これは、non- un- が意味的に分化した例。
こうした否定の接頭辞が頻繁に用いられることから、以前には存在しなかった否定形を生み出すことがある。ただし、非常に口語的である。
 (11)  kempt (<unkempt) :例:'John is very kempt today'. これは実は、数百年前に失われた肯定形の復活。同じものが couth (<uncouth).
 (12)  gruntled (<disgruntled): [説明なし--訳述者]
 (13)  committal (<non-committal): [説明なし--訳述者]
 (14)  traught (<distraught): テレビ番組での会話から 'Are you distraught?’ 'No,I'm very traught really.' 話し手はケンブリッジ大人の学生。
 (15)  disconfirm: ある学術論文から 'It is not certain whether this data will disconfirm that theory'.
 (16)  de-skill, de-skilling: かつて熟練工がしていた仕事が未熟練工とロボットやコンピュータで行なわれる場合に使われる。
 (17)  de-air: to destroy the enemy's air defence ability'>
 (18)  degrade: to weaken or reduce(enemy forces)'.

 <接尾辞>
 接尾辞における発達にも注目すべきものがある。現在よく見られるのは、'the language of (whatever comes before the suffix)' という意味で使われる -speak である。
 (1)  manager-speak: 'the language customarily used by a manager'.
 (2)  Michael Jackson-speak: 'a linguistic item introduced and popularised by Michael Jackson'.
 (3)  football-speak: presumably means that language which we associate yith those who play or are part of football.

6.隠れていた語彙項目の容認用法への上昇−− 1)言語使用域の変化
 現代英話における言語使用域 register の変化は、社会的禁忌語 taboo,婉曲語法 euphemism の面に見られる。以前に比べて禁忌されなくなっている領域の一つは、性交である。外国人にとって間題なのは、非性的意味と性的意味をもつ語において性的意味が最近より目立つようになっていることである。以前はそういう意味はスラングとして隠れていた。

 (1) 例として grope, groping を取り上げる。
  grope は、自動詞的にも他動詞的にも用いられてきた。他動詞的に用いられた場合、性的意味が表面に現われることがある。そこで、改まった言語使用域では他動詞形は使われることが少なくなり、自動詞形も句動詞に準ずる形 grope after, grope for で用いられた。名詞 groper, groping も多くの場合 '(someone) trying to find (something)' という準比喩的な意味で、a groper after truth のように用いられた。他動詞の意味の名残は、中世期からの地名、通りの名前に見られる。(3)

 この語の性的意味が表面に現われてきた最近の例をあげる。Sheffield の Ster 紙の見出し 'Sex-starved doctor groped woman'(17 Dec.1992). ここではこの諦は明らかに、 'unwanted sexual attentions of a physical nature' という意味をもっている。この意味は関連する名詞に影響している。名詞 groper は今 'man who touches a woman suggestively against her will' を意味する。これを grouper 'a kind of fish found in the Caribbean' (Independent Magazine, 16 Nov.1991) との語呂合わせをした漫画も見られた。Observer 誌 (8 March 1992) では、職場での性的嫌がらせの記事の見出しに、Steinbeck の The Grapes of Wrath と語呂を合わせた 'The Gropes of Wrath' を用いている。Guardian 紙の文芸編集委貝は The Literary Companion to Sex という本の書評のなかで、'Indeed,it may well now be difficult to get a novel published in the current cultural climate without the inclusion of a suitably explicit description of the major characters caught up in a significant grope' と述べている。ここでは grope は、'the act of intercourse' を意味している。また、'new, bawdy play' という説明が付けられて Grope 一語をタイトルにしたテレビ劇があった (19 Sept.1992)。
 (2)  bumf (<bum fodder): any paper which is cheap and of little value. 'a large amount of paper or forms'. この語もスラングから容認用法に上昇してきたもので、まだ綴りも安定していない。その紙が不必要、無駄であるという含みのない場合が多くなっているが、'local tourist offices packed with bumf'(Guardian, 2 Oct.1993) では、無価値であることを暗示している。

7.隠れていた語彙項目の容認用法への上昇一一2)限られた地域的意味
 単語によっては、それがスラングや口語の場合にはとくに、英語の他の変種 variety においては誤解されることがある。イングランドで出版された本をアメリカの市場に出す場合に、語を変える必要が生ずることがある。

 Maeve Haran のボスト・フェミニスト小説 Having it Up の場合に、原文の 'Get out of here,you old scrubber' を 'Get out of here,you ex-cleaning woman' に変えたという (Observer, 8 March 1992)。英国では、scrubber は、軽蔑的意味と同時に、時には冗談めかした親近感を表すこともあるので、同じ感覚がアメリカ版では伝えられれなかったかも知れない。

8.談話に起こっている変化――婉曲語法の増大
 上では、性と口語をめぐる言語的制限がゆるんできていることを指摘したが、逆説的だが、碗曲語法の増大が見られる。それには二つの原因が考えられる。

 <婉曲語法増大の原因>
 一つは、生活条件と一般的快適さが向上していると思わせようとすることからくるもので、それには環境条件と活動をより優雅な名前で呼べば良いだろうという考えに基づいているようである。これはイングランドでは部分的には、市民によりよいサービスを提供しようとする試みであるいわゆる Citizens’Charter と結びついている。0bserver 誌 (8 March 1992) では、それが次のように皮肉られている: 'Take your wellies, for instance, 'Ideal though they may be for those trips to the tip (sorry, civic amenity centre), what happens to them when they turn up their toes and die?' この文章には、口語の wellies 'rubber watertight boots' tip 'a town's rubbish dump' がもちいられている。二つには、障害者と社会的に不利な立場の人々を軽視しない呼び方をすべきだとすることからくる。
――
 言語変化のこの側面は、次の引用から見て取ることができる (Independent, 21 Oct. 1991)。

Probation officers wrestled with the problem of neutral language at their annual conference in Llandudno in Wales,which ended yesterday. Speeches at the National Association of Probation Officers were monitored for racism,sexism,disablism,heterosexism,ageism and sizeism. Dr Kelbride,from Norwich,presented a report from the monitors and said "Language is still a difficulty. 'Paymaster' and 'turning a blind eye' indicate that we need to remain vigilant."

 この引用は、形態素 -ism が新しい語を作るのに用いられていることだけでなく、いくつもの概念を取り巻いている敏感さとそれらの概念をどのように表現すべきかをも示している。

 <feminism の影響>
 この動きの第一の力は、feminismである。その見解には、さまざまな態度、とくに言語的態度が変化すれば、女性は正当な尊重が得られる、という意味合いがある。そこから、性 gender を示す代名詞と形態素に関する変更が求められている。
 (1)  he or she, s/he, they: かつては、he が男性だけでなく、共通性を表すとされたが、変更が要求されて、三つの表現のいずれかが使用される。
 (2)  -ess: これは author,poet に付けられることは滅多になくなった。ただし、princess, empress は残っている。
 (3)  paymaster: この語の問題は、-master がこの種の職業では男性であるのが正常だということを暗示するところにある。しかし、言いかえは簡単ではなく、pay-person, payer では紛らわしく、finance officer のような言い方が必要になると思われる。同じことが chairman にも言え、これは chairperson に置き換えられるか、さらに chair がより普通。会合で 'Does the Chair think that is possible?' のような表現を用いるのが普通である。

<障筈に関係する表現>
 人々は今では、障害などをもつ人々の感じ方を以前より意識するようになっている。
 (1)  cripple, lame: 今では、このような語が使われることは稀である。
 (2)  visually handicapped: この表現が blind の代わりに用いられことがあるが、blind を英語の語彙から取りのぞくことは容易ではない。たとえば、Royal National Institute for the Blind はすばらしい歴史をもった組織で、partially sighted に置き換えることはできないと思われる。('politically correct'/PC言語>

 一般的にすべて形の差別の間題が、'politically correct', あるいは短縮してPCである言語を生み出している。これは、アメリカで生まれ、今でももっとも強力に主張されているが、白人男性の支配を崩すことをめざしている。その結果は、すべての場合に適切とは言えないようである。イングランドで見られる例をあげる。
 (1)  differently abled: handicapped の代わりに。
 (2)  vertically challenged: short の代わりに。
 (3)  herstory: history の代わりに。
 (4)  femstruation: menstruation の代わりに。
あとの二つの話における話彙素の形態論te的区分は、間違いである。
 (5) African-American: black American の代わりに。

 他人の感じ方を意識することは正しいが、婉曲語法は、すぐに中性的特質を失い、また新しい表現が求められることになりがちである。たとえば、crippled handicapped に置き換えられたが、それがまた disabled に代えられ、さらに differently abled に置き換えられている。表現を変えても、人々の受け取り方を変えることができないこともあるところに難しさがある。婉曲語法をすべて 'politically correct' とするような誤解も生じている。

<PCに関する小冊子>
 さまざまな小冊子が出されている。Employers Forum on Disability も小冊子を出しているが、ここでは Open University が出した An Equal Opportunities Guide to Language & Image (1993) から使用すべき表現の例をいくつか紹介する。左欄の表現を右欄の表現に置き換えることを勧めている。
障害に関して:
affliction,handicap  impairment,disorder,difficulty
mental handicap learning difficulties.learning disabled
victim of,crippled by person who has,person with
spastics people with cerebral palsy
性に関して:
charwoman,cleaning lady cleaner
craftsman/woman craftsperson,craft worker
housewife shopper,consumer,homemaker
man(verb) operate,staff,work at
man-made artificial,manufactured,synthetic
men of letters literary people,writers
waitress waiter,server
working man wage-earner,taxpayer,worker
workman worker,operative,tradesperson
workmanlike efficient,skilful,thorough

<過去15年間のもっとも重要な変化の一つ>
 もっとも重要な変化の一つは、保守党による自由市場哲学が広まったことによる。すべてが需要と供給の問題であるかのように評価される。市場の言語が広がっている。鉄道では、passengerscustomers になり、大学では、studentclient になるだろう。教育をするのではなくて、製品を売っているのである。その製品は、適当に包装され、市場に出され、配達されなければならない、という具合である。これは、上であげた Citizens' Charter の別の側面でもある。

 おわりに
 終わりにあたって、最近非常によく聞かれる表現をいくつか紹介する。
 Spycatcher 裁判は、'lieing' の婉曲語法としての economical with the truth という表現を残した。湾岸戦争は、ラジオ・バグダッドがあの戦争を指すのに用いた The mother of all battles を残し、'the mother of all ...' という表現が他の場面にも使われ、The Mother of all Teahouses を見たことがある。源のわからない流行している表現(4) には、interactive seminar と言えぱ良いものを指す workshop があり、セミナーでは、報告者は input する。to feel to think に置き代わりつつあるように見える。あることについての考えを尋ねるときに、'How do you feel about that?’と言う。to take things forward は、議論を続けたり、決定を実施することを指す婉曲語法である。the window of opportunity は、'The door has closed on my window of opportunity'という愉快な混合した比喩の表現を生んでいる。変化のニュアンスを発見することは foreigner の現代的形である non-native speaker にとって最大のチャレンジの一つである。


(1) より詳しい議論は、Knud Sorensen, 'Phrasal Verb into Noun', Neuphilologische Mitteilunge 87 (l986): 272-83 を見よ。
(2) そういう理由で、Pacific Index of Abbreviations,compiled by Arthur Ivory (Christchurch:Whitcoulis, l982) のような地域的な省略語の辞典が出されるのである。
(3) Eilert Ekwall, Street-names of the City of London (Oxford: Clarendon, l954)は、性的意味に用いられた grope のl279年の例をあげている。そういう通りには売春婦が多いと考えられる。
(4) これらの表現のいくつかは、シェフィールド大学の Enterprise Unit 発行の The Teaching Times 紙から集めたもの。大学が Enterprise Unit という名前の単位をもっていることも注目する価値がある。
訳述者あとがき

 上に訳述したのは、イングランドのシェフィールド大学教授で、多くの著書を著わしている Norman F.Blake さんの 'Some Lexical Developments in Modern Enghsh' という講演である。ブレイク教授は、1995年7月、英国中世のある写本をめぐる国際シンボジウムに出席するために来日したが、その機会をとらえて、日本の各地の研究者が教授に要請して講演をしていただいた。7月17日、日本中世英語英文学会の前・西支部長である愛知教育大学の菅野教授の主催によって、中京大学で講演会が開かれた。講演のあとで講演原稿をいただけないかとお願いしたところ、ブレイク教授は快く分けてくださった。それによって、この訳述もより内容が確かで豊かなものになった。教授のご好意に感謝したい。
 内容については、細かいことを述べるまでもないが、どのような新しい語・表現が最近見られるのかということと同時に、どのような観点から新しい語・表現を取り上げるかという点にも、十分注意して読んでいただきたい。語彙の変化・発達の研究は、単にまだ辞典に取り入れられていない語・表現を拾うというのではないことが良く示されている。訳述においても、その点が明確になるようにサブ・タイトルなどにも注意したつもりである。
 なお、「訳述」というのは、全訳でもなく、また簡単なまとめでもなく、訳しながら枝葉を大幅に切り捨てて、要点をまとめたものである。分量的に原文の半分以下になるように努力したが、それでも不釣り合いに多くの紙面をとってしまったのではないかと心配している。


The Chukyo University Society of English Language and Literature
Last modified: Thu Apr 30, 1998

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