E.M.フォースターの小説は映画化作品が『インドへの道』、『眺めのいい部屋』、『モーリス』、『ハワーズ・エンド』、最近また『天使も踏むを恐れるところ』と好調なヒットをとばし、すっかり身近に感じられるようになった。くわえて著作も続々と翻訳され、「評価されすぎた作家」という有り難くないレッテルを貼られたこの作家が、やっぱり「評価されるべき作家」だったのかと思いなおす、今日この頃である。
このような風潮のなかで、フォースター初期の自伝的作品The LongestJourneyがお二人の読み巧者によって相ついで翻訳された。こうなると原作のかなめのところの翻訳をこっそり読み比べるのが密かな楽しみとなる…。
さてパンチ&ジュディだが、第12章、ソールズベリーの家畜市をぶらつくスティーヴンが目にすることになる。まるで野生児のようなスティーヴンは、この日も田園地帯を遠乗りしてやって来た。迫連れのリッキーが恋人と離れがたく、予定変更して帰宅したのをいいことに、一人きりの解放感を満喫し、ほろ酔い機嫌で喧嘩をしたりしながら市にたどりついた。こういう時に楽しむには、まったくパンチ&ジュディはびったりだ。そしてこのパンチ&ジュディがそんなに「感傷的」なものではなかったという。原文は
He witnessed a performance--not too namby-pamby--of Punch and Judy.(Penguin,p.116.)
下線部の見なれない言葉は感傷的な詩人アンブローズ・フィリップスをもじってヘンリー・ケアリーとボープがつくった言葉で「いやに感傷的な、弱気な」という意味だという。二種の翻訳では、そろって「感傷的な」と訳されている。もちろん誤訳ではない。
こでひっかかるのは英語の問題ではなく、パンチ&ジュディの問題だ。スティーヴンの観たパンチ芝居が「そんなに感傷的なものではない」なら、では「感傷的なパンチ&ジュディ」があるはずだ。それはどういうものだろう。パンチ&ジュディが「感傷的」というのはちょっと想像しにくいのではないか。妻と子を手始めにありとあらゆるものを欧り殺してしまう痛快暴力活劇パンチ&ジュディには「感傷的な」という形容詞は、およそ、そぐわないように思う。
しかし、実はパンチ&ジュディの歴史を振り返れば、「センチメンタル」な上演というのが確固としてあったのだ。パンチ&ジュディにおいては「コミカル」に対比する概念は「センチメンタル」であった。19世紀ロンドンの下層生活者を精力的にルポルタージュしたヘンリー・メイヒューがインタビューしたパンチ・マンによると、お屋敷街などで呼び込みをして注文を受けたような時には、中流階級の価値観におもねるように、幽霊や棺桶や悪魔は登場させず、全体をゆっくりと丁寧に、特に赤ん坊とのからみや牢獄場面を感情を込めて観客のモラルに訴えるように上演したらしく、これを「センチメンタル」な上演と呼んでいる。他方、盛り場などの街頭で上演するときには、観客には下層階級の人間が多いことから子守をするパンチだとか、パンチが騒音をたてて苦情がでる場面、ソーセージを使う滑稽なギャグや寄席芸人ジム・クラウの出演に力点を置き、「コミカル」な要素を強調したという(「パンチ」『ロンドンの労働とロンドンの貧民』3巻)。
パンチ&ジュディについてこのような知識があれば、スティーヴンの観たパンチ芝居は縁日にふさわしく、「センチメンタル」であるよりはむしろ「コミカル」なものだったのだろうと納得できる。さらに深読みすれば、わざわざ「そんなにセンチメンタルなものではない」などと回りくどい表現を使うところにスティーヴンの生い立ちや背景がにじみでていることに気付く。スティーヴンはリッキーの弟、それも異父弟であり、血筋や伯母の後盾から中流階級の生活を営んできた。まるきりの野生児ではなく、ただ、本人の個性ゆえに、やや脱線ぎみなのだ。おそらくスティーヴンがこれまで観てきたパンチ&ジュディというのは中流階級向けの「センチメンタル」な上演であったはずだ。ソールズベリーの市でパンチ&ジュディを観たスティーヴンはそれまで白分が観てきたものと比べて「そんなにセンチメンタルではないじやないか」と思った、いやさらに一歩進めて「けっうコミカルで面白いじやないか」ぐらいの感想をもった、というニュアンスをここでくみとれるのではないか。
というわけで今回は、イギリス小説を読むにあたって、パンチ&ジュディの知識はあっても邪魔にはならないだろうというお話。