西村 博史
先日、宮沢りえの写真集が発売された。前評判は大変なもので、新聞広告が出る やいなや、予約殺到、マスコミでも、大々的に報道された。現在、日本において は、このようなポルノグラフィー、暴力の賛美、オカルト等の低級な読み物への 大衆的な熱中が見られ、しかも、なお、あくどい人々がそれを利用して、読者の 市場をその種の出版物であふれさせ、若い人々のまだ固まっていない、外部の影 響を受けやすい意識に、野生の原始の本能を目覚めさせる下品な文書を雪崩のよ うに浴びせかけている。現代のジャーナリズム一般の堕落ぶりは、目を覆いたく なるものがある。そのため、何世紀にもわたって普通の価値と名声を保ち続けて きた古典、歴史的評価を得てきた名著への関心のなさ、軽視という問題が、浮か び上がってくる。
では、なぜ、娯楽読み物が多くの人に好まれるか。それは、心を緊張させたり、 考えたりしなくても済むからである。すると、考えられるのは、何も考えずに暮 らしていて、自分をまともだと感じていられる人間が多くなってくるのではない かということである。
「学は光り、無学は闇」である。現在、社会意識のなかに、はっきりと熟しつつ ある人間の理想は、調和の取れた人格であると思う。学生は、そのことを感じ、 未来へと足を踏み入れるに当たって複雑で魅力ある世界で人間の名にふさわしく 生きる覚悟をもつことが、必要である。そのために、読書を欠かさず、「新しい 自分」を築くことが大事であると思う今日この頃である。