中島 信子
団地の四角い部屋で,会話も成立しないベイビーと四、六時中向き合っていると、 ノイローゼ状態に陥る若い母親が多い、というようなニュースが、この頃の日本 ではよく報じられる。フルタイムの仕事を持っていてさえも、保育園に子供を預 けられない休日のときの"母と子の密室状態"は、育児の喜びよりも "不安といらだち"のほうが大きかったのではないかと、自分の経験か ら思う。
巷にきくアメリカ式子育てでは、乳児を持つ母親でさえ、子供をベビーシッター に預け、社交や観劇、夫とのコミュニケーションの時間を持つという。幼い頃か ら、独立した子ども部屋で早々とひとりで寝かされるアメリカの子どもたち、大 人(母親)には夜の大人の時間が当然のごとくある。ここでは"密室の母と なる"という悲劇などないにちがいない。そんなアメリカ式子育て風景に憧 れ、子どもを早くからつきはなすことが正しい育児であると思っていた。しかし。
シャーウィン裕子著「女たちのアメリカ」(講談社現代新書)によるアメリカン フェミニズム最新リポートの中に考えさせられる記述があった。(もっとも、本 書全体がすぐれて刺激的なリポートであることは言うまでもない。)以下に引用 すると、
「アメリカの子どもの世界を描いた本には、大人または親が不在だ。日本の『桃 太郎』『かぐや姫』などが、親・祖父母などに保護され、又は、彼から独立して いく過程を描いているのに比べて子供だけの世界の話が多いような気がするのだ。 アメリカ人は大人も孤独だが子供も孤独なのではないだろうか。『ハックルベリー フィン』のハックと『オズ』のドロシーにとって大人の世界は恐怖と悪意に満ち ている・・・」。
アメリカの子供は、児童文学の古典からも推測されるほどに過去も、そして現在 も孤独なのだということが、夫婦社会、コカイン&エイズベイビー、増える鍵っ 子などのテーマで具体的に語られている。
大人が自分のことにかまけて、"子供の孤独"に気づかない間に、子供 はかっての児童文学の主人公とはまったく異なった主張と行動を見せはじめたの だろうか。そして、それは"病めるアメリカ"という表現にあるように、 展望の見えない悲惨な現実であるように思われる。テレビのニュースで見る限り においても、湾岸戦争以後、「パックスアメリカーナ」の意気は高く、その影で 福祉の削減が大幅になされ、富める者強者と、貧しき者弱者との差はますます拡 大しているようだし、弱者としての子供は、貧困や人種差別による二重・三重の 足枷もつけられ、大人以上の過酷さの中にあるのかも知れない。過保護な日本の 子どもたちが幸せであるかのような錯覚に陥ってしまう程である。はたして、保 護され、管理されている日本の子どもたちと、早いうちから自立を要求され、自 分で自分の道を作らなければならないアメリカの子どもたちとどちらが幸せなの だろうか。保護され管理されすぎた子どもは、結局のところ基本的人間としての 自覚の自立のないままに、きわめて卑小な人生をしかいきられないような気がす る。かと言って、あまりにも未熟なままに実社会に放り出された子どもは、自立 を勝ちとる前に現実の過酷さの前に敗北してしまうことは充分にありうる。
日本においても、アメリカにおいても、孤独な子どもたちの未来は、英米の児童 文学の古典のようなハッピーエンドと、現実主義はもう求めて得られないものに なってしまったのだろうか。まわりにいるひとりひとりの子どもたちはあどけな くかわいいけれど、総体としての子どもを取り巻く状況は、実はとても危険を孕 んでいるような気がしてならない。