教師三年間を振り返り

野池 康一



大学院終了後、中学校の教員をなって三年が経とうとしています。 学部終了後すぐ教壇にたった仲間よりも何年か遅れたことを差し引いても、 教育界の事情が十数年前と比べて大きく様変わりしたことに、私は戸惑いました。

まず、教員の年齢構成がひょうたん型となっており、 一般社会では中堅を担う30年代後半から40年代前半の教員が、 全県的に不足しています。当然そういった人たちの仕事・責任は我々20代にものしかかって来ます。 赴任直後すぐに2年生の担当をする(いや、できると言った方が今私の本音ですが)とは全く思っていませんでした。

第二は、子供を取り巻く進路事情が大変厳しくなったということです。 私が勤務している見附市は新潟県のほぼ中央に位置し、 市内はもちろん近隣の長岡市、三条市など通学可能な高校の学区が広いところにあります。 しかし生徒数の減少に伴い、学区内の7つの高校が、ここ2年の間で、それぞれ募集を1学級ずつ削減し、 生徒達にとっては狭き門となっています。 当然塾通いをしている子も多く、私が昨年度に担任した3年生は、42名中37名が数学・英語を中心に通塾していました。 私が中3だった頃は、通塾した生徒の方にむしろ希少価値があり、よく彼らから受験の情報を聞き出したものでした。

第三には、「英語」を取り巻く環境の変化です。 昨年から今年にかけて、様々な研修会に参加しましたが、 AET、インプット理論などの言葉が毎度と言ってよいほど議題にのぼっています。 あと。『英語教育』(大修館)、『現代英語教育』(研究社)などの雑誌を見ても目新しい用語が時折見られます。 正直なところ、津卯木次と押し寄せる仕事の中で、教科に関する研修は不十分だと反省しているのですが、 英語教育の潮流は、仮に現場で役立つものにしろ、そうでないにしろ、 やはり日頃から情報を収集していかねばならなくなっているようです。

さて、こうした状況の中で、私自身の仕事ぶりはどうだったのか?一年目は、 大学院時代とのギャップに悩むことおびただしく、与えられた仕事をやっとの思いでこなす日々がつづいたので30点。 二年目は、自分のポリシーを全面に押し出し、三年生を無事送り出したので50点。 今年は今日までしっかり授業記録をとったり、研修会で発表をしてのは良いとしても、 怠けて学級通信を発表できなかったり、やや不完全燃焼ということで55点といったところでしょうか。

ここ最近、同僚の結婚が多いせいか、「そろそろ君も考えてみては?」と言われるのですが、 どうもエネルギーが過程の方に吸いとられそうな気がして、そういう話しは効く耳をもたぬと自分に言い聞かせています。 しかし全国各地で起きている教育現場での残念なニュースは、様々なマスコミから耳に入ってくる日が多く、心苦しい限りです。

私が思うに、毅然とした生徒指導や自分の専門教科について妨げる問題はあるはず。

我が中京大学からも、熱意と指導力のある若手教員がどんどん輩出されればち切実に思っています。


(新潟県見附市立西中学校 教諭 修士課程・1988年修了)


The Chukyo University Society of English Language and Literature
Last modified: Wed Dec 23, 1998

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