After the Fall  における意識の流れ


萩  三恵


 After the Fall (1964) 1 はその自伝的要素を問題視されて、 発表当時には "striptease" 2 と酷評され、 また、 極めて心理主義的な意識の 流れによる表現形式については、 批評家たちによって様々な疑念を示されている。 例えば Dennis Welland は、 作品の技巧が主題の多様化を招き、 とりわけ第一幕の展開が不明瞭になっていると指摘している。3 第二幕にこのような危惧が不要なのは、 劇の焦点が Marilyn Monroe をモデルにした登場人物に集中するためであるが、 取りも直さずそれは、 作家 Arthur Miller (1915- ) の自伝的要素を結果的には強めることになる。
 "striptease"という批判は、 Miller がこの作品の序論で述べているところにも起因している。 Miller は "Foreword to After the Fall" の中で "trial" 4 という語を用い、 この作品をある人生の検証として成立させている。 Miller は、 二度の離婚と妻の死を経験したことで自分の 生き方について考え、 その結果として真の愛を獲得するという過程を強調して、 自伝的作品の中に教養小説的な 普遍性を示そうとしているのである。 しかしながら、 作者自身を取り巻く話題性が前面に出されることで、 "striptease"という批評が一方で生じているのである。
 本論では、 この作品における意識の流れについて考察するために、 主人公 Quentin の 「個性化の過程」 (individuation process) に注目し、 ある倫理的な決定に到るために、 彼の心の活動形式が主機能である 感覚機能に依存するものから、 劣等機能である直感機能を発達させていく過程を明確にする。5 「個性化の過程」 とは、 個人が個人の力によって、 一つの判断やそれに伴う行動を創造することを言うが、 その過程は、 自我の統合性や主体性を脅かす、 ある 「イメージ」 に対する認知過程を伴うものであると考える。
 第一幕が始まって間もなく、 Quentin は生きることの意味を模索するために、 ある 「イメージ」 を直感機能を用いて認識しようとしている。

Quentin: .... And, of course, despair can be a way of life; but you have to believe in it, pick it up, take it to heart, and move on again. Instead, I seem to be hung up. Slight pause. And the days and the months and now the years are draining away. A couple of weeks ago I suddenly became aware of a strange fact. With all this darkness, the truth is that every morning when I awake, I'm full of hope! With everything I know  I open my eyes, I'm like a boy! For an instant there's some  unformed promise in the air. I jump out of bed, I shave, I can't wait to finish breakfast  and then, it seeps in my room, my life and its pointlessness. And I thought  if I could corner that hope, find what it consists of and either kill it for a lie, or really make it mine.... (5)
何も手につかない様子の Quentin は、 どこかで創造的活動を放棄するようなところがあり、 心的エネルギーの退行が生じていると言える。 しかし、 それは全面的な退行ではなく、 創造的活動を継続していくために心的エネルギーの使用を必要としている、 創造的な退行状態であると言える。 そして、 ある 「イメージ」 に関連した新たな 「イメージ」 の発見とともに彼の心的エネルギーは進行を始め、 ある 「イメージ」 に関して直感的機能を働かせて創造的活動を継続するのである。
 このような創造的活動のための、 心的エネルギーの退行→新たな 「イメージ」 の発見→心的エネルギーの進行という図式 6 を 「個性化の過程」 の筋道と考え、 その筋道において 展開するこの作品の意識の流れの内容を詳らかにしたい。


 Qentin の心の活動形式は、 ナチス・ドイツの捕虜収容所の 「塔」 を感覚的に認知するだけでなく、 「塔」 そのものの属性を超えた意味を明らかにするために、 直感的機能を根本機能としている。 Quentin の頭の中に断片的に現れる過去の記憶、 現在の意識、 そして、 未来への思考が 「塔」 の 「イメージ」 と連動して意識の流れを形成していることは言うまでもないが、 Quentin の 「個性化の過程」 は、 「塔」 の 「イメージ」 の認識過程と同時に行われていると考えることができるのである。 「塔」 に関する体験はあまりにも強い情動を伴うものであったため、 それは彼の中で元型的な 「イメージ」 となった。 そして、 「塔」 の本質を明らかにするために、 他の類似の 「イメージ」 を探し出したり、 比較したりしつつ、 元型的 「イメージ」 である 「塔」 を直感的機能において認識しようとするのである。
 「塔」 を 「イメージ」 として用いた Miller の表現主義については、 "betrayals" 7 という 論点をさらに展開しなければならない。 第一幕において明らかになる Quentin の最初の妻との離婚と友の死は、 「裏切り」 という人間の攻撃性が招喚した結果であると考えることができる。 このような 「裏切り」 という攻撃性は、 自分の生命、 自由、 体面を守るために用いられる、 防衛を目的とする攻撃性である。 しかしながら、 それは全く 不合理な熱情から生まれるのではなく合理的な計算によるものであるため、 「裏切り」 の行為は、 人間の精神の働きに 基づいていると考えなければならない。
 脅迫されているという感情から生じる 「裏切り」 の行為について、 Erich Fromm が定義する 「反動的な暴力」 (reactive violence) 8 の論理に基づいて考察を展開したい。 「裏切り」 という攻撃性と 「塔」 が 象徴的に示している戦争は、「反動的な暴力」 という同質の攻撃性に由来している。 戦争という社会現象はまた、 主として心理的な力の結果生じる破壊的行為である。 例えば、 Hitler は独りで何百万ものユダヤ人を殺害したのではない。 この大量虐殺は、 自分たちの生命と自由を守るためには戦わなければならないと人々に確信させ、 また、 自分は攻撃の危険にさらされていると思い込ませることによって、 防衛のための戦いを装い得たのである。
 第一幕において、 「反動的な暴力」 の形象は三つの過去の記憶として現れ、 現在の意識と未来への思考に 連動して意識の流れを形成している。 最初の妻である Louise との離婚の記憶が断片的な 「意識」 として現れるが、 二人の間にある確執の性質が、 「裏切り」 という攻撃性であることを彼は深層心理において理解しているため、 母親の夫に対する 「裏切り」 の記憶が続いて 「意識」 として現れる。 そしてこの後に、 反米活動調査委員会に 友を売るという、 Mickey の 「裏切り」 についての記憶が 「意識」 として現れるのである。
 このように、 「裏切り」 という問題に関わる幾つかの記憶を中心に意識の流れを形成することにより、 Quentin は 「塔」 の 「イメージ」 を直感的機能において認識する。 最初の妻、 母、 そして友の 「裏切り」 の記憶について考え、 「裏切り」 の本質を理解すると、 第一幕の終わり近く、 舞台では 「塔」が生き生きと光を放ち、 Quentin はその 「塔」 に目をやりながら次のように述べる。
This is not some crazy aberration of human nature to me. I can easily see the perfectly normal contractors and their cigars, the carpenters, plumbers, sitting at their ease over lunch pails; I can see them laying the pipes to run the blood out of this mansion; good fathers, devoted sons, grateful that someone else will die, not they, and how can one understand that, if one is innocent? If somewhere in one's soul there is no accomplice of that joy, that joy, that joy when a burden die...and leaves you safe?(83)
意識の流れにおいて心的エネルギーを進行させた Quentin は、 「塔」 の 「イメージ」 が、 自分は 「正当である」 という人間の心理のもとに確立していると認識する。 つまり、 「反動的な暴力」 を表象するこれら三つの 「意識」 は、 根源において、 ナルシシズム (narcissism) の精神作用と強く結びついているということなのである。 ナルシシズムは、 病理学的要素の他に、 生存に関わる生物学的機能を有する。 ナルシシズムは、 生存にとって脅威であると同時に、 生存にとって必要であるという逆説的な性質をもっているのである。 個人のナルシシズムが社会のナルシシズムへと転化され、 その結果として戦争という社会的現象が生じる。 社会のナルシシズムは、 自己の集団が優秀で、 それ以外の集団は全て劣等であるというイデオロギーによって支えられた現象であるため、 客観性と合理性を欠くという病理学的側面については、 個人のナルシシズムと同様のものであると言わなければならない。 「塔」 の 「イメージ」 を直感的機能を働かせて認識し、 ユダヤ人に対するナチス・ドイツの評価を考えるとき、 これが、 歪められた性質のものであることが理解できるのである。
 このような社会のナルシシズムの一形態である、 共産党という集団に対する決別として、 Mickey は、 結果的には反米活動調査委員会に友を売るという行為に及んだのである。 統一体としての集団が、 存在を保持してゆくために集団のナルシシズムを必要とする限り、 ますますその集団は、 ナルシシズム的傾向を助長することになる。 Mickey は、 社会のナルシシズムの歪曲した性質を把握し、 倫理的および精神的見地から、 政治活動というナルシシズム的現象がもつ意義を次のように考え直したのである。
Mickey: .... The Party? But I despise the Party, and have for many years. Just like you. Yet there is something, something that close my throat when I think of telling names. What am I defending? It's a dream now, a dream of solidarity. But the fact is, I have no solidarity with the people I could name  excepting for you. And not because we were Communists together, but because we were young together. Because we when we talked it was like some brotherhood opposed to all the world's injustice. Therefore, in the name of that love, I ought to be true to myself now. And the truth, Lou, my truth, is that I think the Party is a conspiracy  let me finish. I think we were swindled; they took our lust for the right and used it for Russian purposes. And I don't think we can go on turning our back on the truth simply because reactionaries are saying it.What I propose is that we try to separate our love for one another from this political morass. (49-50)
Mickey が真実について模索した末に出した答えは、 社会のナルシシズムの病理学的側面と 「反動的な暴力」 の関係を示している。 社会のナルシシズムは、 自己の立場を過大評価するという本質と、 自己と異なる全ての ものに対する憎悪を源としている。 政治の指導者は自分の支持者たちに、 自己の教義に対する批判は全て 邪悪な攻撃であり、 脅迫されているのだと信じこませ、 そうして、 彼らは 「反動的な暴力」 の攻撃性を 表すのである。 真実が寄り集まって構成された集団であるはずが、 かくして構成された全体は、 虚偽と虚構を 構成するようになる。 ナルシシズムに基づく政治活動は、 その客観性の欠如のために悲惨な結果に終わるのである。
 Mickey は、 自らが所属する政治活動から脱退することにより、 個人のナルシシズムおよび社会のナルシシズムから、 完全に自己を脱却したと言える。 妄想から目覚め、 自己についての真実を認識して初めて、 苦悩から自己を開放し得たのである。 すなわち、 反米活動調査委員会に友を売るという Mickey の記憶は、 ナルシシズムからの自己の脱却と、 それに伴う 「裏切り」 の攻撃性という二つの意味をもっているのである。
 Quentin の意識の流れは、 「裏切り」 という問題を心の活動の刺激として、 最初の妻と母の記憶を経て友の記憶に到った。 その結果 Quentin は、 「塔」 の 「イメージ」 が、 「反動的な暴力」 という人間の普遍的な攻撃性の象徴であることを理解した。 そしてまた、 「反動的な暴力」 の攻撃性が自己のなかに存在することを認め、 その攻撃性の根源となっているナルシシズムから自己を脱却する際、 Quentin も Mickey と同様の 「裏切り」 を行わなければならないことを理解した。 この 「裏切り」 は、 創造的活動を始めるために避けることができないのである。 自己の攻撃性を克服するために、 もう一度 「裏切り」 の攻撃性を表さなければならないのは何故か、 そして、 この二度目の 「裏切り」 にはどのような意味があるのか、 この問題点についてさらに考察していきたい。


 第二幕が始まって間もなく、 Quentin は "I am bewildered by the death of love. And my responsibility for it." (90) と述べ、 二度目の妻である Maggie との別れとそれに対する自らの責任について考え、 Holga との創造的活動のために心的エネルギーの進行を試みる。 最初の妻 Louise との離婚は、 お互いの 「反動的な暴力」 という攻撃性が要因であると Quentin は認識したが、 Maggie との離婚は、 彼女の自殺という最悪な結果を見れば分かるように、 人間の攻撃性がもたらした現象であることは明らかである。
 二人の口論が展開される場面から分かるように、 Maggie の性質は、 破壊的衝動である 「ネクロフィリア」 (necrophilia) 的な傾向が強く、「代償的な暴力」(compensatory violence)9 が生成されている。 「代償的な暴力」 とは、 生産的行為における人間の無力感に根ざし、 その無力を 代償しようとする熱情である。 また、 創造することのできない無力者は、 逆に破壊することを求める。 自分の存在を示す力を積極的に生活の中に表現できないために、 破壊という行為によってその対象を超越し、 自分が人間であることを証明しようとするのである。
 Maggie との離婚は、 彼女の破壊的衝動の病理性が深まり、 Quentin の愛を失う脅威から逃れるために、 彼女が死を選択したことで決定的となったのであるが、 Quentin は自分にもその責任があると考える。 そのため Quentin は、 Maggie の 「代償的な暴力」 の攻撃性に関わる記憶から、 彼自身の有害な精神作用を思索するのである。
 第二幕での Quentin の意識の流れにおいて、 Maggie の 「代償的な暴力」 の退行を助長する精神作用とその行為に注目すると、 Quentin の母親についての記憶のなかに、 息子に対する代償と共生の願望が認められる。 母親は息子の将来に対して賞賛の気持ちを込め、 次のように語る。
Mother: Darling, there is never a depression for great people! The first time I felt you move, I was standing on the beach at Rockaway....
   Question has gotten up.
Question, to Listener: But power. Where is the...
Mother: And I saw a star, and it got bright, and brighter, and brighter! And suddenly it fell, like some great man had died, and you were being pulled out of me to take his place, and be a light, a light in the world!(94)
このように母親が Quentin を賞賛する記憶に続いて、 両親が言い争う記憶が 「意識」 として現れる。 この記憶の繋がりによって Quentin は、 両親の不仲の原因が、 理想の男性像を息子において代償しようとするあまり、 母親の息子に対する共生願望が強くなったことにあると理解するのである。 母親の代償と共生の願望は、 息子の Quentin に良性型の 「母親固着」 (mother fixation) の気質と強度のナルシシズムを植えつけることになる。 自分は父親より優れているとか、 さらには、 どんな男性よりも優れているというナルシシズムを母親との絆の上に構成するのである。 そして彼は、 母親に代わって自分を慰め、 愛し、 賞賛してくれる女性を必要とするようになる。 その結果、 彼の存在証明は、 自分を無条件かつ無制限に賞賛する女性によって与えられることが可能になるのである。
 Quentin と Maggie の関係は、 このような 「母親固着」 の傾向が大きくなった 「近親相姦的共生」 (incestuous symbiosis)という固着の悪性形態において成立していると言える。 Maggie は、 目標に対して 自己の意志を向け、 目標に到達するまでの努力を続けることができない無力感を Quentin のナルシスティックな 愛で代償する。 そして Quentin は、 自分を神のように敬う Maggie の愛によって自らの価値を確認し、 彼女にナルシスティックな愛を与える。 このような代償と共生の相互依存の関係は、 二人の間に「近親相姦的共生」 という固着の悪性形態を生成したのである。
 このようにして Quentin は、 Maggie との別れとそれに対する自らの責任について考えるために、 両親と Maggie についての記憶を中心にした意識の流れを形成するが、 これらの記憶の根底に、 人間のオリエンテーション 10 の中で最も有害で危険な二つの形態を認めることができるのである。 一つは Quentin と母親の間に 生成された悪性のナルシシズムであり、 そしてもう一つは、 Quentin と Maggie の間に生成された「近親相姦的共生」である。 これら二つのオリエンテーションは、 Maggie の 「代償的な暴力」 の攻撃性を助長し、 そのため、 彼女はもはや Quentin なしでは生きていけなくなり、 その関係が脅かされると極度に不安を感じたり、 脅えたりする病理的様相を呈するのである。
 Maggie の 「代償的な暴力」 は、 悪性のナルシシズムと 「近親相姦的共生」 のオリエンテーションの退行が深くなるにつれて、 その破壊的衝動である 「ネクロフィリア」 的傾向をますます強めることになる。 したがって、 Quentin との関係を前進的な方法で解消することは、 Maggie には不可能となる。 Quentin は 「死」 という形の退行的な解決方法ではなく、 「生」 という形の前進的な解決方法を選択するよう、 Maggie に次のように言う。
Quentin: .... But no pill can make us innocent. Throw them in the sea, throw death in the sea and all your innocence. Do the hardest thing of al  see your own hatred and live! (154)
Quentin と Maggie の歪んだ関係は、 悪性のナルシシズム、 近親相姦的共生」、そして 「ネクロフィリア」 の三つの退行的なオリエンテーションで形成されている。 人間的な力を 完全に生長させ、 お互いの間に新しい調和を見出すためには、 退行的なオリエンテーションに 対立する前進的なオリエンテーションを発達させなければならない。 すなわち、 悪性の ナルシシズムに対立するものとして人間への愛を、 「近親相姦的共生」 に対立するものとして 独立性を、 そして、 「ネクロフイリア」 (死) に対立するものとして 「バイオフィリア」 (生)の各オリエンテーションを発達させなければならないのである。11
 ところが、 極度の退行状態に陥り反狂乱で破壊を求める Maggie を、 もはや
Quentin には救うことはできない。 Quentin は Maggie に次のように告げる。 Quentin: You want to die, Maggie, and I really don't know how to prevent it. But it struck me that I have been playing with your life out of some idiotic hope of some kind that you'd come out of this endless spell. But there's only one hope, dear  you've got to start to look at what you're doing. (147)
Quentin: Yes, I lied. Every day. We are all separate people. I tried not to be, but finally one is  a separate person. I have to survive too, honey. (149)
前進的な解決方法に従って、 Quentin は 「近親相姦的共生」 の形態から自分自身を脱却し、 独立性を獲得する。 一方、 Maggie は自らの 「ネクロフィリア」 的性質を克服し、 自分だけの力で生きる努力を試みなければならない。 この前進的な解決方法は、 Mickey が所属する政治活動から脱退した方法と同じものである。 その結果として Mickey は、 ナルシシズムの集団から解放されるために友である Lou を見殺しにした。 そして Quentin もまた、 「近親相姦的共生」 の生活から解放されるために Maggie を見殺しにした。 だが彼らの 「裏切り」 の行為は、 前進的な解決方法において避けることが できない結末であると言えるのである。



 人間は攻撃的な動物であるがゆえに罪深いという普遍的な問題に、 Alice Griffin は次のように一つの視点を呈示している。
Quentin's final realization, and the conclusion of his trial by his own mind and conscience, paradoxically both finds his guilty and sets him free to hope, for Holga is the embodiment of hope; ....(Griffin, 126)
人間は自己探求において、「罪」と希望を得るための 「自由」 との間の逆説に直面する、 と Griffin は述べている。 「自由」 (freedom)12 の第二の概念に基づいて、 前進的な解決方法における 「裏切り」 の意味を明らかにしたい。
 「自由」 は、 人生における合理的関心と非合理的関心の間の選択、 あるいは、 生長に対する停滞と死の選択、 という二者の中で一方を選択することを意味する。 「自由」 とは、 私たちに付与されるものではなく、 洞察と努力により獲得し得る選択の可能性なのである。 この 「自由」 の概念の基に、 人間の 「罪」、 すなわち、 人間は根源的に悪なる存在なのかという問題について考えることができる。 まず、 悪ということは人間特有の現象であり、 理性、 愛、 自由を排除しようとすることである。 また、 人間は善と悪のどちらにもなり得る。 善と悪の二つのバランスの均衡が保たれている間は、 人間には選択の自由、 すなわち、 合理的関心と非合理的関心の間の選択が可能である。 しかし、 善と悪の性質のバランスが失われる程に人間の心情が硬化する状況においては、 もはや、 その選択の自由はなくなるのである。
 Mickey は自分が共産党員であることを告白するだけでなく、 反米活動調査委員会の場で 友人の Lou の名前を出すことにより、 ナルシシズムの全ての悪性形態から自己を解放することができた。 だが、 これは決して 「裏切り」 の行為ではないのである。 Mickey は Lou とともに真の意味において 「生きる」 ことを望んだのである。 しかし、 Lou のナルシシズムの退行状態は深刻で、 もはや、 前進的な解決方法の選択は不可能だったのである。 そして、 Quentin もまた、 Maggie との 「近親相姦的共生」 における独立性の葛藤から自己を解放するために、 前進的な解決方法に従って、 自分だけの力で生き残ることを選んだのである。



 Quentin の頭の中では、 断片的な過去の記憶、 現在の意識、 そして未来への思考が、 一連の意識の流れを形成する。 創造的活動のための、 心的エネルギーの退行→新たな 「イメージ」 の発見→心的エネルギーの進行という図式の基に意識の流れを考察することで、 人間の心情と、 それが善や悪に走る傾向を検討してきた。
 人間は社会的環境の中に統合される際に、 その対象に歪曲した熱情を寄せる。 また、 生産的行為における無力者の代償の熱情は、 その病理性が深まると極めて危険な攻撃的な熱情となる。
 これらの熱情および人間のオリエンテーションは、 退行するだけではなく、 前進もする。 そして、 前進か退行かの選択の自由は、 善と悪の二つの傾向が均衡を保つ間に限り、 可能である。 人間の理性と感情が正確な均衡を保つことができなくなると、 合理的な選択は不可能になるのである。 人間はこのような選択を行うことを運命づけられている。 創造的活動のための目標と手段を選択しなければならないのである。 人間は誰か他人の救いに依存することはできず、 自らが選択する方法によってのみ真実の 「生」 が得られるのだ。 しかしながら、 選択する権利をもはやもたない場合もある。 この場合、 その人の 「生」 は終わりを告げていると言わざるを得ない。

*本稿は、 日本英文学会中部地方支部第 52 回大会 (2000年10月21日、 愛知県立大学) での口頭発表の原稿を加筆修正したものである。



1 Arthur Miller, Afther the Fall (New York: Viking, 1964).  以下このテキストからの引用はページ数のみ括弧内に記す。
2 Mr. Miller is dancing a spiritual striptease while the band plays mea culpa.... He has created a shameless piece of tabloid gossip, an act of exhibitionism which makes us all voyeurs. (Robert Brustein, "Arthur Miller's Mea Culpu," New Republic, 8 February 1964, 26-27)
3 It is questionable whether the fragmented episodic stream-of-consciousness method is really adequated in the establishment of so many and such varied themes. (Welland, "The Drama of Forgiveness," Arthur Miller, 69)
4 The Play, then, is a trial; the trial of a man by his own conscience, his own values, his own deeds. (Miller, "Foreword to After the Fall," Theater Essays, 257)
5 ユングは心の活動状態を、 思考 (thinking)、 感情 (feeling)、 感覚 (sensation)、 直感 (intuition) の四つの根本機能に区別して考える。 例えば、 一つの灰皿を見ても、 これが瀬戸物という部類に属すること、 そして、 その属性の割れやすさなどについて考える思考機能、 その灰皿が感じが良いとか悪いとかを決める感情機能、 その灰皿の形や色などを適確に把握する感覚機能、 あるいは、 灰皿を見たとたん、 幾何の円に関する問題の解答を思いつくような、 そのものの属性を超えた可能性をもたらす直感機能、 これらの四つのどれかの機能を働かせる。 思考と感情、 感覚と直感とは対立関係にあり、 つまり、 思考機能の発達している人は感情機能が未発達であり、 逆に感情機能が発達している人は思考機能が発達していないという関係にある。 これは、 感覚と直感についても同様である。 このように、 ある個人が主として依存している心理機能を主機能、 その対立機能を劣等機能という。 ここで、 劣等機能とは未分化なものを指すのであって、 弱いものを指すのではないことに注意しなければならない。 劣等機能は時々、 人間の制御を超えて働き、 心理状態を不安定するのである。 ある個人はその主機能をまず頼りとし、 補助機能を頼りとしつつ、 その開発を通じて、 劣等機能をも徐々に発展させていく。 このような過程をユングは 「個性化の過程」 と呼ぶ。  (河合, 『ユング心理学入門』, 47-48 )
6 河合, 『イメージの心理学』, 34
7 The tower, observes Stephan S. Stanton, is a symbol of the "extension of guilt from the personal to the social" level. The interrelationship of betrayals on the personal, professional, and social levels finds effective expression in Miller's impressionistic style. (Griffin, 127)  In After the Fall, betrayals is both personal and political. Quentin's proclaims that no one can be innocent after the Holocaust, that while his brothers died in the camps, they also built them. (Janet N. Balakian, "Miller in the sixties," Cambridge Companion, 121)
8 Erich Fromm は The Heart of Man において、 人間の攻撃性を二つの悪性形態で論じている。 一つは reactive violence であり、 自由の脅威に対する防衛反応のことをいう。 主観的に本人が危険を感じて、 攻撃的な反応を示す 「反動的な暴力」 の論理は、 人間の不平等や人間による人間の搾取の正当性を説明している。 (Fromm, 25-27)
9 人間の攻撃性の二つめの悪性形態である compensatory violence は、 身体的および精神的に劣っていると意識するときの、 これを補おうとする心理的働きと、 その結果生じる生産的行為への代償のことをいう。 (Fromm, 30-34)
10 自己と現在の環境および過去との関係を正しく認識する精神作用。 (Fromm, 23)
11 人間を破壊や憎悪にかりたてる退行のオリエンテーションには、 ネクロフィリア、 悪性のナルシシズム、 近親相姦的共生がある。 各オリエンテーションの退行が深くなるほど、 これら三つのオリエンテーションは集中する傾向をもつ。 その反対に、 成熟の最適条件に到達した人の場合にも、 三つのオリエンテーションは集中するようになる。 ネクロフィリアの反対はバイオフィリアであり、 悪性のナルシシズムの反対は愛であり、 近親相姦的共生の反対は独立性である。 (Fromm, 113)
12 第一の 「自由」 の意味は、 完全に生長し、 生産的な人のもつ性格構造の一部ともいうべき態度、 ないしは、 オリエンテーションのことをいう。 そして 「自由」 の第二の意味は、 互いに正反対の二者の中で、 一方を選択する能力のことをいう。 (Fromm, 132)

引用文献

Anshen, Ruth Nanda, ed. Fromm, Erich. The Heart of Man: Its Genius for Good and Evil. London: Routledge & Kegan Paul Ltd, 1965.
Bigsby, Christopher, ed. The Cambridge Companion to Arthur Miller. Cambridge: Cambridge UP, 1997.
Bloom, Harold, ed. Arthur Miller. New York: Chelsea House, 1987
Griffin, Alice. Understanding Arthur Miller. Columbia, SC.: South Carolina UP, 1996.
Martin, Robert A., ed. Theater Essays of Arthur Miller. New York: Viking, 1978.
Miller, Arthur. After the Fall. New York: Viking, 1964.
河合隼雄. 『イメージの心理学』. 青土社, 1991.
河合隼雄. 『ユング心理学入門』. 培風館, 1999.

戻る


The Chukyo University Society of English Languageand Literature
Last Updated: Thursday, April 10, 2003

Previous