Death of a Salesman 再考
「死」の形象のパラドクス

萩  三恵


 

 戯曲 Death of a Salesman は、「死」を前にした男の苦悩を、死よ りも悪い運命に直面した人間の悲劇として描いたものである。セー ルスマンの Willy Loman は見本の入った大きな旅行カバンを二つ さげて登場し、そして、その重荷をおろし、手のひらに痛みを感じ る。疲労困憊し "I'm tired to the death." (130) と呟く彼は、その疲 労を終わらせる「死」の間近まできている様相を漂わせている。自 動車事故に見せかけた自殺を試みたものの、死ねずに旅先から帰っ たのだ。しかし、彼にとって死そのものが恐怖であるわけではない。 「死」を説明し納得するための生き様を見せることによって、自らの 死に何らかの意味を残したいのである。つまり、彼が恐れているの は無意味な「死」なのである。

  Miller が「人間は社会的な動物である」(1)  という概念のもとに、個 人の感情がいかに社会の産物であるか、という問題を劇化している ことについては周知の通りである。すなわち、Willy は社会におけ る存在証明の消失という、いわば「社会的な死」の苦しみを余儀な くされていると言えるのである。人間には「身体的な死」とは別に、 もう一つの「死」が用意されており、我々は絶えずその危険にさら されているのだ。それは死よりも悲惨な「生きながらの死」を意味 する。しかしながら、Willy はその死より悲劇的な宿命に苦しんで までも、無意味な「死」を回避するのである。

  人は肉体的な「死」よりもはやく、精神的な「死」を体験するこ とがある。身体的な活動を終える以前に、彼の社会的な活動は停止 し、人間としての根源的な生の終わりを迎えているのである。 Death of a Salesman におけるこのような「死」の形象のなかには、 個人と社会との本質的関係が浮かび上がってくると考えられる。あ る集合的表象によって生成される「社会的な死」は、いかなる仕組 みのもとに「身体的な死」を招喚するのであろうか。本稿では、「死」 の観念に社会的な意味を付与することによって、この作品における 「死」の意義を明らかにしたい。

T

  社会からの離脱としての、「社会的な死」に鋭く劇的焦点を当てた場面は、"wire-recording machine"(177) という小道具によって 効果的に演出されている。Willy は地方回りの仕事から外してもら い、事務所勤務に変えて欲しいと要求するが、彼の声は録音機から 流れる音声によって遮られる。ようやく社長の Howard に話しか けることができたときも、Howard は Willy の苦境に耳を傾けよう とはせず、"business is business"(180) と彼の要望を拒絶する。そ こで Willy は、彼がセールスマンになることを決意した頃の、セー ルスマンの神様的存在である Dave Singleman  を引き合いに出して、"personality"(180) が重要性をもっていた古き良き時代につ いて語る。だが、週40ドルという給金の要求さえも認められず、 34年間勤めたあげく、Willy は「オレンジの皮を捨てる」(181)よ うに解雇されるのである。

  こうした他人との交渉から疎外され、相手にされない状況におい て、Miller は人間関係の空洞化を叫び、確実な存在がもたらす満足感 の無さを嘆いている。録音機は、資本主義社会の勃興を契機とする ような、歴史的断片を象徴しているのである。この表象により、さ らに、物理的なものに起因する無力さと社会的関係に伴う空虚さと が、同様な修辞を呼び起こす感情となって喚起されている。つまり それは、喪失と欠如の修辞にほかならないのである。Miller は個人 の感情と社会との関係について、次のような定義を示している。

The deep moral uneasiness among us, the vast sense of being only tenuously joined to the rest of our fellows, is caused in my view, by the fact that the person has value as he fits into the pattern of efficiency, and for that alone. The reason Death of a Salesman, for instance, left such a strong impression was that it set forth unremittingly the picture of a man who was not even especially "good" but whose situation made clear that at bottom we are alone, valueless, without even the elements of a human person, when once we fail to fit the patterns of efficiency. ("On Social Plays," The Theater Essays of Arthur Miller 59-60)

「人間は社会的な動物である」という Miller の基本概念は、何らか の社会的機構を離れては人間は存在しえないことを意味してい る。人間の存在は、それを取り巻く社会的機構のなかで認められる。 したがって、特定の社会組織や集団に組み込まれ、社会的相互作用 に参加することは、人間の根源的、かつ普遍的な営みの一つと言える のである。そして、自らにとって有効な所属機関からの除外は、居 場所がないという喪失の感覚を生じさせ、これは生きる意味を失う という欠如の感覚に繋がる。会社という、Willy にとって唯一の社 会的機構を消失することは、自己が社会のなかで一定の位置を占め ているという認識を崩すと同時に、彼を社会において不適応と見な す事態をまねくのだ。生存のためには不本意ながらも、心からの相 互行為を与えようとはしない雇い主を相手に、社会的関わりを持た なければならない。なぜなら、社会という強力な媒介の外には出ら れはしないからだ。それゆえ Willy にとって、所属機構である会社 からの解雇処分は、存命に関わる切実な問題として現れているので ある。

  人間の存在が社会的な世界のなかで営まれ、他者との相互作用に よって保証され、維持されるのであるかぎり、我々の精神的生命は いつでも消滅してしまう運命にある。そのとき我々は、孤独の感覚 を禁じえないだろう。Miller はそれを悲劇的感情として論じてい る。

The quality in such plays that does shake us, however, derives from the underlying fear of being displaced, the disaster, the disaster inherent in being tornaway from our chosen image of what and who we are in this world. Among us today this fear is as strong, and perhaps stronger, than it ever was. In fact, it is the common man who knows this fear best. (2)
         ("Tragedy and the Common Man," Theater Essays 5)

社会的な世界から置き去りにされ、社会的相互作用の現場に一人取 り残された人間が表す「疎外感」の様相とは、まさしく根源的な恐 怖のそれである。その恐怖から逃れるために、人は自らの場所を確 認し、所定の位置に収まろうとする。それによって、自分が何をす るべきかが分かり、自分がだれなのかが保証されるのだ。

  「疎外感」から逃げだすために、欠如あるいは喪失したものを取り 戻そうとする行為は、例えば、次の Brian Parker の指摘から確認 できる。

Slightly more abstract, yet still realistic, is the play's use of trees to symbolize the rural way of life which modern commercialism is choking. Willy, we are told, bought his house original- ly because it stood in a wooded suburb where he could hunt a little, and where his yard was flanked by two great elms; but now the trees have been cut down and his property is so over-shadowed by apartment house that he cannot even grow seed in his back garden.
("Point of View in Death of a Salesman," Arthur Miller's Death of a Salesman 27)

会社を解雇された Willy は、舞台前面に懐中電灯、鍬、種袋を持っ て現れ、育てる力を失った土に種を蒔く準備をする。この場面に演 出されるのは、工業化と都市化の波が急速に人々の生活に襲いか かってきている、空虚な現在そのものであると同時に、空洞的人間 関係の表象でもあるのだ。そして Willy は、この精神的な空白を埋 めることを求めるのである。

  人は疎外されることによって、Willy の声が録音機が発する音声 に妨げられるように、他者から「見られない」存在になる。まるで 心に穴が空いたような虚無感を抱えた彼が求めるのは、自分にとっ て有効な、新たな機構である。「見られること」を切望し、そして、そ の目に自らが承認されることを求める Willy が構築する世界は、し. かし、彼以外には決して「見えない」世界なのである。それは、心 身ともに疲れ果てた Willy が、精神的な空白を埋めるために創造し た幻想の世界なのだ。他者には精神錯乱状態としか認識されえない この世界について、次章で詳細に述べたい。

U

  社会的な存在者として不適格である、と確定されることにより主 体生を失った Willy は、意識体系の中心的機能としての自我の統合 を不安定にしている。人間は自我の働きにより外界を認識し、判断 し、対処していく方法を見出していく。ところが、この統合性をも つ自我が乱れることで、彼は精神的異常をきたしているのである。

  人は自己を人間として構成してくれる何らかの場所に、他者に認 識される、「見られる」存在として身を置き、自らの存在価値を証明 していかねばならない。これに失敗したために引き起こされた Willy の精神錯乱状態は、したがって、彼に社会的存在の承認を与 えてくれる、そんな対象を求める願望から生じたものなのである。 彼の心的調和を失った状況が周りの人に奇妙に映るのは、その対象 が肉体的に死んでしまっている、視覚的に「見えない」人物である からだ。「社会的な死」の状態にある Willy と「身体的な死」の状態 にある、今は亡き兄 Ben との、ふたりだけの空間が現実世界に展開 されているのである。つまり、Ben はその身体を消失した後も、 Willy の精神的世界のなかに生きているのである。"And it does take a great kind of a man to crack the jungle."(218)、"The jungle is dark but full of diamonds, Willy."(218)、"One must go in to fetch a diamond out."(219) という Ben の言葉は、彼が「生 きながらの死」の状態にある Willy を「死」へと赴かせる、影響力 をもった存在であることを示しており、Ben はまさに生きた存在で あると言える。

  Ben の存在は、肉体的にこの世から消滅したあとでさえも、多く の人々に記憶されることによってこの世に留まり続ける、ある意味 で伝説的な人物のそれである。彼らの存在価値を左右する絶対的要 素が、時代背景とそれを成立させている社会であることはいうまで もない。そして、社会のなかで独自の意味を付与されたこの種の人 物は、いつしかその独自性を衰退させる。時代の流れと呼ばれる社 会システムの変容によって、その有効性を発揮しなくなるからであ る。同様に、時代を映し出す自然の風景もまた、社会の構成要員に よって人為的な変化を遂げる。"... when I was seventeen I walked into the jungle, and when I was twenty-one I walked out.... And by God I was rich."(157) と Ben が自らの成功物語 を語る場面は、こうした社会システムの有り様を明確に示してい る。彼が生きた時代の風景である "jungle" は、アフリカでダイヤモ ンドの鉱脈を掘り当てるという個人主義の表象であり、"rich" とい う形容詞を伴うことで、一獲千金という社会的現象を劇中に例示し ていることが分かる。

  目前の事象は、ある社会的意味を付与されることで社会的現象と 見なされるが、そこには従うべき法則が確立されている。つまり社 会的現象とは、その背後にある法則を具現化したものなのである。 この法則について、Miller は、社会劇作家の観点から次のように論 じている。

The Greek citizen of that time thought of himself as belonging not to a "nation" or a "state" but to a polis.... In war or peace the whole people made the vital decisions, there being no profession of politics as we know it; any man could be elected magistrate, judge even a general in the armed force.... The thing of importance for us is that these people were engaged, they could not imagine the good life excepting as it brought each person into close contact with civic matters.
                   ("On Social Plays," Theater Essays 52)

古代ギリシャにおいて、戯曲は社会的要素の濃いものでなくてはな らなかった。当時のギリシャ社会では、市民は「ポリス」に属し、 誰もが政治的決定の枢要に参加していると考えられていた。市民と しての問題に関わるという社会意識を抜きにして、有徳な人生など は考えられなかったからである。人は、ただ自らの都市とのつなが りをもっているときにのみ、本当に生きているという実感を得られ たのである。

  このような古典劇の理論からも明らかなように、社会の法則に対 して人は、ただ受動的で、服従しているだけの存在ではない。人は 目前の事象を把握し、何らかの形で意味を見出すことによって、日 常のなかに条理の感覚を生成する。これは同時に、現実性の感覚と なって、人々の間に社会の法則を成立させるのである。そうして生 み出され、維持される条理は、現象の移り変わりとともにそのつど 新たに構築され、その時代の現実感覚として認識される法則となる のである。すなわち、劇中に見られる、ダイヤモンドによる一獲千 金という歴史的事実は、社会現象となるべき条理を認められた法則 を具象化した、その一例であると同時に、「人問は社会的な動物であ る」という Miller の概念を明確に表していると言えるのだ。

  Ben の成功を自らの人生哲学に応用することは、Willy を救うど ころか、むしろ、彼を限界へ追い詰めると言わなくてはならない。 Miller が "... we respect the Law he has so completly bro- ken,..." (3) ("Introduction to the Collected Plays," Arthur Miller's Collected Plays 35) と述べているように、Willy は現実の社会から 逃避し、既に無効になった過去の社会的現象に自らの居場所を求め ることにより、Miller の言う法則に二度も背いたからである。その ため、"The jungle is dark but full of diamonds, Willy."(218)、 あるいは "It's dark there, but full of diamonds."(219) という Ben の言葉は、人間として存在する資格を失った Willy を、文字通り暗 い「死」というジャングルヘ導いていることを意味している。

  こうして「社会的な死」から「身体的な死」に至った Willy の 「死」は、果たしていかなる意味を残したであろうか。無意味な「死」 だけは逃れたいという彼の最後の願いは適えられたのであろうか。 REQUIEM に登場する Willy の家族と友人の言葉に注目し、さら に彼の「死」について考えたい。

V

  「社会的な死」により自己の存在証明を抹消された Willy は、法 則に従って宿命的な「死」を遂げた。Willy の「死」の誘因ともなる 主題を、Leonard Moss は次のように明示している。

Some spectators have declared Willy to be a passive victim of society―Miller's vehicle for an attack on American institutions or values.... For another critic the play is "symbolic of the breakdown of the whole concept of salesmanship inherent in our society."
                                (Arthur Miller 57)

Moss はWilly の「死」に対する見解を、二つの態度に分類してい る。Willy を廃棄物同然の哀れな境遇にまで追い込んだ社会を、 我々が非難するのを Miller が期待していることは疑いない。また 一方では、現代社会におけるセールスマンの夢と挫折を象徴的に描 いた劇として分析することもできる。しかし、両者はむしろ、個人 の感情と社会の関係を浮き彫りにする、現代社会における「疎外感」 の諸相として、一つの範疇のもとに取り扱われるべきである。そし てこれらの様相に、自己疎外、つまりアイデンティティ喪失につい ての考察を加えなければならない。

  父親の墓前で息子の Biff が、"He never knew who he was." (221) と述べると、これに対して Charley は次のように応える。

Nobody dast blame this man. You don't understand; Willy was a salesman. And for a salesman, there is no rock bottom to the life. He don't put a bolt to a nut, he don't tell you the law or give you medicine. He's a man way out there in the blue riding on a smile and a shoeshine. And when they start not smiling back―that's an earthquake. And then you get yourself a couple of spots on your hat, and you're finished. Nobody dast blame this man. A salesman is got to dream, boy. It comes with the territory.(221-222)

セールスマンという職業は、生活に "rock bottom" がない、いわば 浮き草稼業である。それゆえに、現実を把握できなかった Willy を、誰も責めることはできないと Charley は述べている。しかし、 「自分というものが分からない人だった」という Biff の意見に応え うるために、さらに Charley の言葉は、重要な含みを帯びていると 言える。Willy にとっては "smile" と "shoeshine" だけが資本で、 彼はまるで、はるか彼方の青空に浮かんでいるようなものだという Charley の比喩表現は、彼が虚無と欺瞞という問題を内に秘めてい ることを言い表しているのである。一方では、「疎外感」による空虚 な精神状態に苦しみ、自己の核を失うという問題がある。また他方 では、「一個の人間が表面的にどう見えるか」について意識しすぎる あまり「仮面」を自我と見なし、本来の自分を見失うという問題が ある。そしてこれらはともに、統合的自我の不成立という問題に集 約されるのである。

  「疎外感」という人間にとって根源的な恐怖から逃れるためには、 社会において自分は何をするべきかを確認し、そうすることで自分 は誰なのかを証明しなければならない。Willy はセールスマンとい う職業によって、その命題を立証しようとした。ところが、彼は相 対的な判断を誤ってもなお、その価値を疑おうとはせず、むしろよ り一層、その社会的地位に固執せざるをえなくなってしまってい た。なぜなら、セールスマンの「仮面」が、彼自身をすっかり覆い 隠してしまったからである。Willy の本当の自分は、空疎化してし まったのだ。

  Willy の「死」は、このように彼を取り巻く諸相を徹底的に問い、 さらに、彼の「生きながらの死」の意味を理解することによって、 その意義が明白にされる。
Clinton W. Trowbridge は次のように述 べている。

The essential paradox of tragedy then, lies in the fact that even though the tragic hero is destroyed, his struggle "demonstrates the indestructible will of man to achieve his humanity.
  ("Arthur Miller: Between Pathos and Tragedy," Arthur Miller 42)

肉体を失ってもなお彼の精神が生き続けるためには、「生きながら の死」、つまり彼の苦悩が、「人間性獲得への不滅の意思を証明する」 様相を呈するものでなくてはならない。そして、そのまさに「生き ながらの死」に苦しんだ人間のみが、自らの生命の証を残すことが できるのである。人間には「死んでしか成しえられない生」がある のだ。不合理な社会に生きていかざるをえない人間は、必然的に 「生」と「死」の問いから逃れることができないのである。この命題 に苦悶する姿は、このうえない悲劇的感情を喚起するに違いない。 なぜなら、「人間性獲得への不滅の意思を証明する」ことは、Miller が論じるように、「ピューマニスティックで民主主義的な精神が誇り を持って受け入れることのできる唯一の目標」(4) であると確信するか らである。


  Miller は Death of a Salesman において、「生」と「死」という二 項目の概念を「存在」と「不在」という形で演出し、「社会的な死」 という問題に焦点を当てている。典型的には、共同性からの断絶、 連帯の欠落、利益社会における孤立といった形態で現れている。す ると、この戯曲における「死」の形象には、「存在の不在」と「不在 による存在」というパラドクスが生じる。すなわち、「生きながらの 死」という苦悩と「死んでしか成しえられない生」という悲劇的結 末である。この不条理は、しかしながら、「本来政治的で、本来個人 的で、本来ある立場を持つ人格として生きる」 (5) べき人間に課せられ た、それゆえに根源的な宿命であると言えるのである。



(1). Miller は社会劇作家としての姿勢を古典劇の定義に求め、"That is, the relations of man as a social animal, rather than his definition as a separated entity, was the dramatic goal." (Arthur Miller, "0n Social Plays," The Theater Essays of Arthur Miller, 51) と述べてい る。
(2). "Tragedy and the Common Man" と題した演劇論において、Miller は、アリストテレスの悲劇論の定義に異論を唱え、現代社会における大 衆の悲劇の誕生を「疎外感」に由来するものとして、独自の悲劇論を表 明している。
(3). Miller は、"How can we respect a man who goes to such ex- tremities over something he could in no way help or prevent? The answer, I think, is not that we respect the man, but that we respect the Law he has so completely broken, wittingly or not, for it is that Law which, we believe, defines us as men. (Arthur Miller, "Introduc- tion to the Collected Plays," Arthur Miller' Collected Plays, 35.) と述 べ、我々は「法」を尊重することによって、人間としての存在が認めら れると論じている。
(4). Miller は "On Social Plays" の中で、"Time is moving; there is a world to make, a civilization to create that will move toward the only goal the humanistic, democratic mind can ever accept with honor."(57) と述べ、人間の疎外がまさしく社会問題となる資本主義 社会において、この社会を変革するためには、人間が相互に連帯を結ぶ ことが必要であり、それによって「疎外感」は解消されると主張してい る。
(5). Miller は同上の演劇論の中で、"It is a world in which the human being can live as a naturally political, naturally private, naturally engaged person, a world in which once again a true tragic victory may be scored."(57-58) と述べ、個人と祉会との本質的な関係にもと づく、社会劇作家としの確固たる基本概念を明示していると言える。

参考文献

1 Bloom, Harold, ed. Arthur Miller, New York: Chelsea House, 1987.
2 Bloom, Harold. ed. Death of a Salesman, New York: Chelsea House, 1988.
3 Martin,Robert A., ed. The Theater Essays of Arthur Miller, New York: Viking, 1978.
4 Miller, Arthur. Arthur Miller's Collected Plays, New York: Viking, 1957.
5 Moss, Leonard. Arthur Miller, New York: Twayne, 1967.
6 スクラグズ・チャールズ『黒人文学と見えない都市――アメリカ/ スイートホーム』、松本昇・行方均・福田千鶴子訳、彩流社、1997.
7 河合隼雄『ユング心理学入門』、培風館、1967.

大学院学生(1999)


The Chukyo University Society of English Language and Literature
Last modified: Oct 23, 2000

Previous