Hemingway の作品に見る肉体の構図
――『老人と海』について――

柳沢 秀郎


はじめに

 行動の人と言われた作家 Hemingway であるが、その行動に欠かすことのできない肉体 というものへの彼の姿勢は非情に興味深いものがある。彼の作品の世界の多くは、そ の感覚主義も裏付けているように、ある意味で、肉体に大きく依存しており、 このことは Hemingway の作品の特徴のひとつとされている。ところが、この一貫した姿勢は, 晩年の作品 The Old Man and the Sea で大きく譲歩されることになる。 Santiago の独白などを通して発せられた精神的要素が、とりわけ海を舞台とした場面に 充満しているためか、この作品にどこか幻想小説の印象を与えていることがわかる。(1)  精神的要素を作品にふんだんに盛り込むというこのような姿勢は、死が存在する現実をただ無情 に受容する姿を描くことに徹してきた Hemingway にとって、晩年に見られる傾向である。 そして、このことについては、Hemingway の作風の転換期で あるとか、これまでの姿勢に新たな要素が加わったのだとかさまざまに解釈され ているのであるが、概して肯定的な評価が多いように思われる。

 そして、その理由のひとつが、Santiago の有する肉体的存在が水 平線の上で自らを主張し続けているためか、独白が織り成す精神的要素の一方的な蹂躙を防 いでいることによる作品世界全体のバランスの良さにあると考えられる。 いや、それどころか、その精神的要素と「海の舞台」が一体となったあの作品世界に、どこか有機的肉体の イメージすらが感じられるためかもしれない。

  一般的に、この作品については、大海に囲まれた「超現実の世界」と老人が出発して最後に帰還する[現実(文明)の世界」という二つの世界に分けて論じられることが多いのであるが、批評家の多くが前者の超現実の世界をとりあげ、その世界の有機的特徴に触れ、そこで行われる Santiago の行為の意味、魚や海との関わりなどを論じてきている。しかしながら、その超現実の世界で欠かすことのできない精神的要素、またそれに拮抗する肉体的なイメージの存在、更にその両者の調和によってもたらされるこの世界全体の有機的な印象が、 Santiago を核にしてどのような関わりと構造をもっているのかという点には、それほど注意は向けられず、もはや前提であるといわんばかりに論を進めている傾向があるように思うのである。

 よって、 本稿では、The Old Man and the Sea の中心となる「超現実の世界」において、それを構成する二つの要素を、 Santiago の独白によって作り出され る精神的要素と、それを内包し、彼を取り巻くフィジカルな環境として作品舞台、すなわち「大海の舞台」のふたつに見ていくことによって、作品舞台にとどまっている Santiago の肉体がこのふたつの要素とどのように絡み合い、また、それによって、[超現実の世界]全体にそのようにしてあの有機的なイメージを与えてるのかを明らかにしていく。


老人の周辺

 老人、Santiago が大海原に挑む姿勢にあまりにも孤独が強調されるためか、 批評家の多くが、主人公の周辺に配置されているあらゆる存在を、「孤独な Santiago を潜在的に支えているもの」として扱いたがることは、やむをえな いことのように思われる。たとえば、Rarl Rovit と Gerry Brenner はその 著書、Ernest Hemingway の中で次のように言っている。

As he fights the fish---a solitary old man with a straw hat desolate on great sea---he is not alone. A literal cord joins him to his "brother," the fish. Other equally strong cords bind him to the "things" of nature---the sun, the moon, and the stars; the sea life and the birds; his town, his neighbors, the boy, and his past. It is as "whole" man that he meets the fish and brings him back; and it must be as Man, not fisherman, that his experience be measured. (72)
こうした批評の傾向は、Santiago を「独りの敗北した老人」ではなく、普遍的な存在として の「人間」にまで昇華させたいという、ある意味でひどく純粋な読者としての反応の結果 であると考えられる。確かに、普遍的な存在に昇華した主人公という批評的志向 は、作品解釈にとって重要である。しかしながら、それもあの[超現実の世界]から発せられる有機的なイメージに依るところが多く、Santiago と その周辺の存在の関わりにおける緻密な分析無くしては、どこか説得力を欠いてしまうのである。

 そこで、まず第一に、あの世界を有機的空間と捉える上での都合を考え、二つの作品世界を「舞台」という有限的広がりとして捉えることにする。したがって、 主人公 Santiago を取り囲むあらゆる存在を作品の舞台を構成する舞台装置とし て捉え、その上で主人公との接点を改めて考え、そこから生まれてくるひとつの 図式を考えたいと思う。

  まず作品の舞台を構成する要素として Santiago の周辺にあるものに注目したい。 これは、Rovit と Brenner の引用に含まれる ``things''の内 容を参考にすれば、次のように分類することができるだろう。

超現実の世界の舞台装置      the fish, bird,the sea, the sun, the moon, the stars
現実(文明)の世界の舞台装置  his town, his neighbors, the boy, bed, tourists

 「超現実の世界」は、「魚」(the fish)と「海」(the sea) を中心として、「太陽」(the sun)、「月」(the moon)、「星」(the stars)などを上空に配置してできあがる「大海の舞台に、」、 Santiago の独白からなる精神的要素を漂わせてはじめて完成する世界である。

 一方、「超現実の世界」と並べることができる「現実(文明)の世界」は、作品の最初と最後に描かれる「彼の町」(his town)、 そして、そこに住む「隣人たち」(his neighbors)や「少年」(Manolin) および「ベッド」(bed)、「旅行者」(tourists)などの舞台装置で作り上げられている。 作品の中間部では、時として忘れ去られがちな、これら水平方向の限界を 規定する要素は、魚との格闘中に Santiago によってしばしば語られる ``I wish the boy were here....''(62)という言葉によって、無限とも思われる 広大な作品舞台に一定の枠組みを作り上げている。 周辺の舞台装置をこのように分類してみると、Santiago を舞台の中心に置 いたときの外枠を規定することができる。そしてこのことは、この作品の批評や分 析におけるさまざまな解釈に当てはめることができると思われる。 さらに、こうしたもう一つの世界、すなわち精神世界の創造主という意味において も、この作品の要ともいえる Santiago そのものにも分析の視点を転じておく必要がある。



肉体との会話

 「大海の舞台」での Santiago の独白は、独白といえどもさまざまな対象に 向けられていることがわかる。たとえば、魚は言うにおよばず、ボートを訪れる小鳥、海 (la mar)または神などもあげることができるのであるが、なかでも特に注目すべき、自分自身に語りかける行為 である。そこで、作品の舞台で実際 に Santiago が語りかける対象を次のように分類してみた。

対外的対象         魚     "Don't jump, fish,'' he said. "Don't jump.'' (97)
               鳥     "Stay at my house if you like, bird,'' he said. (61)
対峙的自己の総体    おまえ  "Yes you are, he told himself. (102)
               老人   "Get to work, old man,'' (106)
対峙的自己の肉体    手     "How does it go, hand?'' (65)
               頭     "Clean up, head,'' (102)

これらには、「大海の舞台」で核となる Santiago からの物理的な距離を段階的 に読みとることができる。すなわち、魚や鳥といった自分の肉体から離れ た対象、それから「おまえ」や「老人」などの肉体も含めた対峙的自己の 総体、そして、さらには手や頭といった肉体の一部分というようにである。 そして、この段階の行き着くところには、舞台上方に設置された星や太陽、月といった舞 台装置の一応の上限と考えられるものがある。

 このような構図を念頭において、肉体に語り掛けるという Santiago の行動を考 えてみるとき、ひとつのことに気づく。それは、語り掛ける主体としての Santiago のさまざまな対象への扱いの同質性である。いいかえれば、この老人は、鳥に対 しても、魚に対しても、自分に対しても、さらには、自分の肉体の一部に対して も同じ調子で語り掛けているということである。このことは、次の引用に現れている。

 ・  "What kind of a hand is that,'' he said. (64)              ・・・手
 ・ "Come on hand. Please come on.'' (69)                ・・・手
 ・  "My head is not that clean....'' (107)                  ・・・頭
 ・  Think of what you are doing. You must do nothing stupid. (52)  ・・・頭
 ・  "Because I do not know what the fish is going to do.'' (66)    ・・・魚
 ・  "God let him jump,'' (59)                         ・・・魚

自分の肉体の一部が、自然の一部である魚とまったく同じように Santiago の思 い通りにならない存在として扱われている。このような扱い方は、Santiago を中 心とした「大海の舞台」の構図において、彼の自我からもっとも近い存在である彼自身の肉 体さえも、彼を取り巻く周辺のあらゆる舞台装置のひとつとみなし、自己から分離 させていることを意味してはいないであろうか。すなわち彼の周辺を占めるあらゆる舞台装置は、魚、小鳥を はじめ、太陽、月、星などにまで、拡大をみせるのであるが、そのある種限られた広がりの中心を肉体を兼ね備えた総体的な存在としての Santiago とするのではな く、その肉体さえも周辺的舞台装置とみなし、後に残る彼の自我だけを舞台の中 心とするという解釈が成り立つように思えるのである。

  このような解釈は、さらにふたつの並立する解釈につなぐこ とができる。それはつまり、自我を除いたすべてが Santiago にとって同質であ るとしたときに、その同質の基準を自我に一番近い距離にある「肉体」に置く場合と、 反対に自我からもっとも離れた作品舞台の枠組みを含む「自然」に置いた場合とである。

 自然に基準を置いた場合、彼の肉体は自然の一部と考えることがで き、「Santiago は自然と同一化したのだ」という種のさまざまな解釈の根拠に なるように思われ。

  一方、肉体に基準を置いた場合、周辺に存在する舞台装置のすべてを Santiago を外側 から包む「肉体の一部」とみなすことが可能となる。それは、すなわち、「大海の舞台のすべては、 Santiago の肉体である」という解釈に結びつけることができ、この世界の有機的イメージの謎の解明を一歩前進させる。

  ここで、この超現実の世界に欠かせない要素のもうひとつ、すなわち Santiago の独白による精神的要素を持ち出さなければならない。「大海の舞台」が、ある有限な空間であり、そこに存在するすべての舞台装置が肉体と同質であるとすれば、それは舞台全体で一個の細胞と考えられるのであり、そこに漂っていると思われる精神的要素は、この細胞を一個の「生物」に仕立て上げているというのは言いすぎであろうか。すくなくとも、かれの独自の内容は、単なる個人的レベルを超えて、自然に生きる人間の有様、たとえば、生物を殺すということ、そして生きるためにはそれを食わねばならぬということ、またそれによって生ずる罪にまで及んでおり、自然界における生物の縮図としてのこの細胞に見事に調和しているように思われるのである。そして、このように考えることで、大海を舞台にした「超現実の世界」が醸すあの有機的、肉体的イメージに一つの説明を加えることができるように思うのである。

 そこで、次章では、以上で示した解釈を基に、作品を構成するもうひとつの世界、すなわち、「現実(文明)世界」との関わりや、これまで論じられてきたさまざまな作品解釈のうちのいくつかをみていくことにする。


同質化する舞台で

 魚との格闘を終えて、「超現実の世界」から「現実(文明)の世界」へ帰還した Santiago が Manolin と次のような言葉を交わしている。

"They beat me, Manolin," he said. "They truly beat me."
"He didn't beat yu. Not the fish."
"No. Truly. It was afterwards."     (136-37)
ここでの me は Santiago であり、イタリックで示された He は直後に語られる the fish である。そこで注目されるのが、Santiago を打ちのめ (beat)した存在、すなわち They なるものの正体である。Santiago の afterwards という言葉からわれわれはすぐに鮫(sharks)を思い浮かべがちなのであるが、Manolin があわててこの複数代名詞の中から He を取り出して、「魚に負けたわけではない」と返す点やこの老人の性格から考えて、鮫に限定するのは不自然である。だとすれば、この They は魚であり、鮫であり、海であり、大海で彼をとりまいた状況であり、したがって、「大海の舞台」における舞台装置の集合、または「超現実の世界」そのものへの総称を示しているといえる。そして、あえて付け加えるならば、その舞台装置のなかには、Santiago 自身の肉体も含まれているのであり、よって、They のなかに Santiago 自身も加えることができるのである。彼は、「大海の舞台」で自分の肉体がいかに無力かを痛感させられたのでり、そういう意味でも They に含めることが可能だといえる。また、Santiago の言葉に絶望的な響きがなく、それどころかライバルとの手加減のない闘い清清しさが感じられるのは、あの超現実の世界g彼自身の肉体を媒体として構築された、あらゆる生物の営みの縮図であり、それを感じてしまった彼にとっては、遠出したことによって彼にもたらされたあらゆる結果は、すべてその営みの縮図に収まる、いわば、自然界の道理にあった現象に他ならないからである。したがって、Santiago が遠出をしなければならない理由を考えたとき、それを文明の支配する現実の世界ではとかく忘れがちな自然界における生物の本来的有様を再確認するため、とすることができるのである。

 また、「現実(文明)世界」と並べるときに、もっとも多く論じられているもののひとつとして、Santiago の行為に 見られるその神秘性に基づいたと思われる「宗教的儀式」や「自然界との融合」 といったものがある。たとえば、Rovit と Brenner は次のように述べている。
We have in other places commented on the parallels between Santiago's fishing excurison and Hemingway's image of himself as artist; a closer reading of The Old Man and the Sea from this standpoint makes a persuasive case for placing Hemingway firmly within the Transcendental aesthetic tradition. (75-6)
彼らは、 この作品の Santiago の姿にアメリカ文学の伝統のひとつである「超絶主義」 の流れを感じとっている。すなわち、彼らは自然に対峙する人間の象徴とみなされる Santiago が自然を通して行う行為に対して、超絶主義者らが唱える 「自然との同一化」の姿を感じ取ったのである。この「自然との同一化」は 、先に述べた作品の世界の構図に容易に当てはめることができる。すなわち Rovit と Brenner をはじめ多くの批評家たちが論じている「同一化」の感覚は、この構図 において Santiago の肉体が周辺の舞台装置と同質とみなされているところから 来ているのであり、またそのことにより、Santiago の自我(精神)は、肉体から解放され、あたかも作品世界内を浮遊している印象を受けるからであろう。

 また、作品に見られるこうした幻想的で妙に儀式的な感覚は、読者のわれわれだけが身勝手に感じているのではなく、作品舞台の中の Santiago 自身も感じていることは用意に推察されよう。(2)

 つぎに、Santiago の行為に対する「罪」(sin) について検証してみる。(3) Santiago は魚を殺すという行為に対して、自分の罪の可能性を本人自ら露呈してしまうのであるが、このことが魚に対する Santiago の同族意識と深く関わっていることは明らかである。この点については、魚を「海の心臓」と捉え、(4) 大自然の本質的存在にまで解釈を広げている批評家も少なくない。だとすれば、同質性の広がりは Santiago、魚、海という順に連鎖をなすと考えてよいであろう。そして、ここでの「海の心臓」のように、われわれがこの作品の海に対して人間的肉体のイメージを禁じえないのは、その同質性が Santiago の肉体を基盤にしているからに他ならないのであり、Santiago 茂魚も海も、もっぱら肉体という意味において同質なのである。三者を結ぶ同質の連鎖は Santiago の自我から一番近い取り巻き、すなわち、彼の肉体から端を発しているといえよう。そうすれば、これまでひとつの解釈に落ち着きをみない場面、たとえば、Santiago が胸中で「魚をとるってことは、おれを生かしてくれることだが、同時におれを殺しもするんだ。」(Fishing kills me a it keeps me alive. --117) と語るような場面も充分理解されるのである。そして、これらはまた、副次的なさらなる解釈の広がりをわれわれに可能にする。

 たとえば、魚を死に至らしめるという行為が Santiago 自身の死とある意味で直結しているのであれば、彼の魚にふるう銛の一投一投が自分自身の肉体への攻撃といえるのであり、したがって、そこから人間のもつ特性のひとつである「自虐的な衝動」を読み取ることができるのである。Santiago と魚との格闘の場面に sadism と masochism という相反するイメージが同時に感じられるのはまさにこのためだとは考えられないだろうか。

 また、上述の連鎖によって Santiago の肉体の延長ともいえる「海」についても新たな解釈が浮上する。一般に、 Santiago にとっての海は、この作品世界で女性的な役割を演じているというのが多くの批評家に共通している点である。(5) たとえば作品の次のような箇所をその証左として あげている。
He always thought of the sea as la mar which is what people call her in Spanish when they love her.... Some of the younger fisherman, ... spoke of her as el mar which is masculine. They spoke of her as a contestant or a place or even an enemy. But the old man always thought of her as feminine and as something that gave or withheld great favours,.... (32-3)
Santiago のこの独白には、多分に女性的な側面を意識した海への思いが感じられることは確かである。そして、再び舞台装置である海を Santiago の肉体の延長であるとする解釈を当てはめるならば、海への愛情はそのまま彼自身の肉体への愛情、いとおしみへと広がりを見せ、ひいては自己愛や自己憐憫へと直結してい くことになる。だとすれば、Manolin をはじめその他の村人が待ちかまえているあの文明的現実の世界では、自らの栄光をどうしても勝ち得ない Santiago にとって、大海にしつらえられた舞台装置のすべては、束の間とはいえある種の恍惚感を味わいたいという人間として至極当然の衝動を満足させるための大がかりな舞台セットとみなすことも可能なのである。そして、この舞台セットで作られた空間は、彼の避難所とも安息の場所とも考えることができ、少なくとも文明の支配する世界からの一時的逃避は果たされたと考えられるのである。

 以上みてきたように、超現実の世界での Santiago の肉体を舞台装置とすることによって生まれる解釈のいくつかが、これまでのさまざまな解釈と何らかの形で共通点や関連をもっていることがわかった。


まとめ

 The Old Man and the Sea は、「非情な写実主義」の典型とされてきた それまでの Hemingway の作風に多分に精神的な要素が加わったという意味で、 一方ではハードボイルドな文体の限界の表われであるとか、彼自身の作品創作に おけるまさに信条 (code) の放棄ともいわれてきた。なるほど、たしかにひとつ の技巧だけに限った創作は作品そのものの広がりをも制限しかねない。そう いう意味で、彼は晩年に来てある種の譲歩の態度を示さざるを得なかったのかも しれない。しかし、重要なのは、そうすることによって作品総体としての価値を 減じるか、高めるかということであって、The Old Man and the Sea は十分その価値を高めたといえるだろう。精神世界が本来的な Hemingway 的要素である肉体を基盤にした行動的な世界をむやみに阻害せず、むしろ 作品全体が肉体的なイメージを醸し出しているからであるといえる。

 新たに加わった精神世界が前面に現れながら、どのようにして肉体的な生々しい 雰囲気を作品全体に漂わせることが可能なのであろうか。その要となるのが、作 品の世界を Santiago を中心とした構図に当てはめたときの、その作品舞台にお ける彼の肉体の位置なのだと思う。Santiago の肉体は、いつで も瞬時に周辺にあるその他の舞台装置を自分と同質の 存在に変えて巻き込んでいく。つまり、この作品が全体として常に Hemingway 本来の肉体的な特徴を帯びて、我々に伝わってくるのはそういう働きによるもの だと考えられるのである。



1 作品に漠然と感じられるこの幻想的な雰囲気について、瀧川元男氏は Santiago と魚の闘いを「演出」とみなし、その演出の舞台として「神秘な殿堂」という言葉を用いて次のように述べている。「ヘミング ウェイはその演出を「自然」という宏大で---しかもわれわれ人間と相通ずるものを持つ---神秘的な殿堂を舞台としておこなおうとするのである。」 (瀧川元男『ヘミングウェイ再考』南雲堂、1987年、258頁)

2 Arvin R. Wells は、"A Ritual of Transfiguration: The Old Mn and the Sea" と題した critical essay のなかで、 This sense of ritual action is fostered by the simplicity of the style,... and by the old fisherman's own sense of mystery,... (56-7) と述べ、Santiago 自身が感じている幻想的な感覚によって作品の儀式的な側面が強調されていることを指摘している。 (Katharine T. Jobes, ed. Twentieth Century Interpretations of The Old Man and the Sea, New Jersey: Prentice-Hall, Inc. 1968)

3 Arvin R. Wells は、同上の critical essay のなかで、Before the old fisherman is himself identified by obvious allusion with the crucified Christ.... Yet, at the same time, he is relentlessly determined to capture and kill the marlin, as Cain killed his brother and s the Roman soldiers killed Christ. (59) と述べ、、老人の行為にカインの行った「兄弟殺し」を投影しており、大橋健三郎氏も『荒野と文明』(研究社、1965 年)のなかの、「ライオンの夢」の章で、Santiago と the fish の間には単なる同胞以上の結びつきがあると述べている。(45頁)

4 大橋健三郎氏は、『荒野と文明』(研究社、1965年)のなかの、「ライオンの夢」の章で、「つまり、彼の心は、あの海(男性の el mar ではなく、女性の la mar)の生命とともにあり、彼自身その la mar と等質のものをもっていたのだ---あの「文明」の世界とは絶縁された大海の心臓部と。いわば彼は、この孤独な大海の心臓部と宿命的に結び合わされていたのであり、したがってまた、あの「栄光」の巨魚マリーンとも宿命的に結びあわされていたのである。」(43頁)と述べ、老人、魚、海の三者の同質性を強調していることがわかる。

5 大橋健三郎氏は、『荒野と文明』の中で、この点について、「ここでは、海はたんなる女性としてとらえられているばかりではなく、一個の女性としてとらえられている。この老人と海に対する愛は、アガペーではなくて完全にエロスである。」(156頁)と述べている。



参考文献
1 Hemingway, Ernest. The Old Man and the Sea, New York: Charles Scribner's Sons, 1952.
2 Rovit, Earl and Brenner, Gerry. Ernest Hemingway, Boston: Twayne, 1986.
3 Jobes, Katharine T.,ed. Twentieth Century Interpretations of The Old Man and the Sea, New Jersey: Prentice-Hall, Inc., 1968.
4 Young, Philip. Ernest Hemingway: A Reconsideration, University Park: Pennsylvania State University Press, 1966.
5 瀧川元男『ヘミングウェイ再考』、南雲堂、1987年。
6 大橋健三郎『荒野と文明』、研究社、1965年。
 


The Chukyo University Society of English Languageand Literature
Last Modified: Tuesday March 6, 2001

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