The Earthsea Quartet におけるもうひとつのリビジョン
――テナーとテルーを中心に


織田 まゆみ


                                 T

  Ursula K.LeGuin (1929- ) の Earthseaシリーズは、1968年の A Wizard of Earthsea (以下Wizard と略す) に続きThe Tombs of Atuan (1971. 以下Tombs)、 The Farthest Shore (1972. 以下 Shore) が刊行され、長い間3部作と思われていた。それぞれの巻は、 若きゲド(Ged) が高慢さから呼び出した影を統合する過程 (Wizard)、すでに竜王となったゲドが平和の印であるエレス・ア クベの腕輪を求めてアチュアンの墓所に侵入する冒険 (Tombs)、 そして大賢人となったゲドが若いアレンを伴って行く生と死の扉を しめる旅 (Shore) を描いている。これらは、魔法使いゲドの人生の 節目、青年期・壮年期・老年期の課題にも対応している。つまり、 この3部作は日本語翻訳の副題『ゲド戦記』 が示すようにあくまで ゲドの物語であった。

  ところが、ルグィンは、Shore から18年後に Earthsea 最後の書 と銘打ったTehanu (1990) を刊行した。彼女はこれに関して次の ように述べている。

IN OUR HERO-TALES of the Western world, heroism has been gendered: The hero is a man. ... Woman are seen in relation to heroes: as mother, wife, seducer, beloved, victim, or rescuable maiden. Women won independence and equality in the novel, but not in the hero-tale.                            ( Revisioned  5 )
しかし、このような英雄物語を支えた、芸術家はジェンダーを無視 して書くべきだという「基準」そのものが、実はジェンダーに捕わ れていることが明らかになった。つまり、批評界を牛耳り、大学や 社会の責任ある地位にいたのは男たちであって、彼らが男の視点で 芸術について定義していたのである。したがってルグィンは Tehanu について以下のように宣言する。
The fourth book, Tehanu, takes up where the trilogy left off, in the same hierarchic, male-dominated society; but now, instead of using the pseudo-genderless male viewpoint of the heroic tradition, the world is seen through a woman's eyes. This time the gendering of the point of view is neither hidden nor denied. In Adrienne Rich's invaluable word, I had "revisioned" Earthsea.   (Revisioned  12 )
Tehanu の女の目とはテナー(Tenar)の視点である。Tehanu でテ ナーは力を使いきって死んだようなゲドに向かって、"Which of us saved the other from the Labyrinth?" (522) と、25年前のアチュ アン脱出について問う。この問いは、テナーの声が満ち溢れている にもかかわらず、最終的にはゲドの話とされていた Tombs を10代 のテナーの話と把握し直し、Tehanu における40代のテナーに結び つけることを求めているように思われる。つまり、Tehanu が加 わったことで、アースシーはゲドが主人公のひとつの物語から、テ ナーを主人公とするもうひとつの物語を含む重層的構造になったの である。さらにテナーという女性の目を通してみられるアースシー 世界は、これまで自明とされてきたアースシーの諸々に違った角度 から光を当てることとなるが、これが、ルグィンのいう revision (見直し)になるわけである。この論稿では、テナーとテルーの関係 に焦点を絞りたいので、Tehanu によるアースシー世界の見直しに 関しては簡単にふれるだけとしたいが、私は3つの側面があると考 えている。2

  まず、力に関してである。最初の3部作に流れていたのは、力を どう使うかという問題であったが、これに対し Tehanu では、虐待、 つまり力を悪用された少女が象徴するように、力が強者から弱者に 加えられていき、しかも加害者である強者は免罪され、被害者であ る弱者が結果のすべてを引き受けさせられる構図があることが明ら かにされた。次に男と女に関してである。Tehanu では対話が頻繁 におこなわれるのだが、女であるテナーの話を聞く耳をもてない男 たちもいる。このような対話不成立の背後にあるのは男だけの緊密 な人間関係、ホモソーシャルな関係と女性排除である。そしてこの ことは、圧倒的に男達の関係が描かれる3部作にもあてはまるので ある。さらに、ホモソーシャルの頂点にたつ英雄ゲドが魔法の力を 使い果たした姿を描くことによって、英雄が犠牲にしてきた他人と のつながりを、特に性に象徴させて暴いてみせた。つまり、Tehanu は、これまでの3部作を相対化し、才能がありエリート教育をうけ た男の英雄がどちらかといえば孤独に行為をなす、といった物語の 土台を突き崩す視点をもっているといえるのである。

  テナーはこのような見直しを、2人の人物との出会いを契機に成 し遂げた。つまり、力を使い果たしたゲドとの再会と、テルー (Therru)という虐待され、レイプされ、あげくの果てに燃えてい るたき火の中に放りこまれた女の子との出会いである。そして、世 界を見直す過程でテナー自身も新しい自己を形成していく。しか し、ゲドとの再会と異なり、テルーとの出会いは突然で偶然のよう に見えるのにもかかわらず、テナーは躊躇することなくテルーを引 き取った。その理由は、テナー自身の生い立ちに隠されているので はないだろうか。まず、娘の立場だったテナーをみていきたい。

                     U

  ゲドが 魔法使いオジオン(Ogion)にその才能を見出されたのは、 彼の住むゴント島に、隣国カルガド帝国の兵士たちが略奪に来た時 彼らを追い払ったからであった。テナーはこのカルガド帝国のア チュアン島にある聖地(Place)で、脱出までの十数年を暮らした。 聖地は隔絶された砂漠にあり、塀で囲まれていて、内部には女性と 宦官しか入れない。テナーは、3つの神殿のうちの最も古いが荒れ 果てている 'Hall of the Throne' の大巫女になるのだが、そこには、 巨大なふくらはぎをおもわせる二つの円柱の奥に、大きな空の玉座 があり、地下には洞窟とそれに続く大迷宮がある。Hallの裏手には 墓所とよばれる9つの石柱がたっていて、のちの地震の時ぽっかり と口を開き墓石を呑み込んでしまった。また、神を名乗る王が力づ くで制圧する以前、大巫女は領主や族長の仲裁という役割をもって いたが、今は王に刃向かった罪人をいけにえとして始末するだけで ある。

  これらの記述から喚起されるのは、女性のイメージであろう。大 地の子宮としての地下、呑み込む大地母神、そして始めも終わりも ない迷宮は、吉田純子の主張するように「子宮と卵巣の生み出す周 期的なサイクルに閉じ込められた女性の人生を暗喩する」(33)。ま た、男の不在と忘れられた存在は、栄光のない隔離された女を示し ているし、権力者の罪人を殺すことは、闇の部分を受け持たされた うえで、権力に奉仕させられていることになろう。そして、聖地の 歴史は、大地母神の信仰が、男神を中心とした神々が出現してくる につれて、マイナスのイメージを付加される女神の歴史と重なって いると思う。つまり、アチュアンの聖地は、家父長社会における女 の場所を示しており、テナーはそこを継承する者なのである。

  次に空の玉座にすわる「名なき者たち」(the Nameless Ones)に ついて考えてみたい。アースシーにおいて真の名をしることは、 'Who knows a man's name, holds man's life in his keeping.'(70) ということを意味する。魔法使いの仕事はこの真の名を知ることと いってよいのだが、それは、オジオンが草を例にして、「根・葉・花 が四季の変化でどう変わるかを知り、においをかいだだけでも種を みただけでもそれとわからなくてはならない」と述べたように、ど こか科学者を彷彿とさせる作業でもある。つまり、対象を知で切り とり、分析し、意識化するというのである。名を知ることが、この ような特徴をもつのであれば、「名なき者たち」とは、意識化できな いもの、名がないから支配できないものを表わすことになる。つま り、Wizard においてゲドが向き合い最終的には自らに取り入れた 影を個人的影とよぶなら、「名なき者たち」とは、世の中の影と考え てもいいのではないだろうか。ゲドは「名なき者たち」について次 のように述べている。

They should not be denied nor forgotten, but neither should they be worshipped. The Earth is beautiful, and bright, and kindly, but that is not all. The Earth is also terrible, and dark, and cruel.                       (Earthsea  266)
だが、なぜ「名なき者たち」は、女性をイメージする神殿に担わさ れているのだろうか。それは、両者とも社会が意識化していない影 の存在ということで、互いに通じるものがあるからではないだろう か。つまり、女は世の中の闇に埋没させられているのである。 Dinnerstein は、闇が女をひきつける原因を次のように述べた。
Woman, who introduced us to the human situation and who at the beginning seemed to us responsible for every drawback of that situation, carries for all of us a pre-rational onus of ultimately culpable responsibility forever after. (234)
  さて、テナーは農民の子として生まれたが、大巫女の生まれ変わ りとして5歳の時聖地に連れてこられ、翌年「食われ」、'the Eaten One’であるアルハ(Arha)となる。つまり彼女は、「名なき者たち」 に供され、供されることで大巫女としての力を得るのである。「食わ れる」ということは自分がないということであろう。大巫女は永遠 に生まれ変わるものなので、自分の人生と呼べるものはないし、名 前も取りあげられた。個人としての変化は否定され、限りなく大巫 女という立場に同化することを求められる。ミサをさぼった時も、 彼女だけ "There is nothing left. It was all eaten."(192) と言わ れ、罰ももらえない。聖地で巫女たちが営む生活も、囲まれた塀の なかでの自給自足の、考える機会のない連綿と続く経験の生活であ る。儀式や歌はすべて口承で伝えられ、今では意味の失われてし まったものもある。つまり、アルハは変化の可能性を摘み取られた 無垢の化身ともいえよう。彼女は、閉ざされた場所で、自らを閉ざ して生きることを強要されている、換言すれば自分らしく生きるこ とを阻まれている虐待された子どもといえるのではないだろうか。

  この変化のない退屈な生活のなかで、唯一アルハが自分の意志で できることは地下の迷宮を歩くことだった。光は禁止されていたの で、彼女は手探りで闇を進むのだが、ここで、異性ゲドと光に遭遇 するのである。彼女は怒りの叫び声を発し、ゲドを地下に閉じ込め てしまうが、大巫女として当然すべきこと、つまり彼を殺すことが どうしてもできない。彼女はゲドに怒りと好奇心をもち、魅了され 反発する。この2人の交流は恋とよんで差し支えないものであり、 徐々に信頼がうまれていく。ゲドは「テナー」と、奪われていた名 前で彼女に呼びかけ、自分自身の真の名を教える。ところが、神王 (Godking)の神殿の第一巫女コシルがゲドの存在を知ることと なって、彼女は、アルハとして聖地に留まるのか、それともテナー として、ゲドと脱出するのか選択を迫られ、ついに後者を選ぶので ある。しかし、この脱出には、母の死が必要だった。

  テナー=アルハは、生みの母と別れさせられた後、アチュアンで 三人の母を持っていた。まず、付き人である宦官マナンである。ア ルハは彼に対してわがままに振る舞うが、マナンはアルハを甘やか す。二人目の母サーは、冷静で厳格で、アルハを教え導いたが、既 に病死している。もう一人はコシルだが、彼女は娘を支配する母で ある。コシルは、身分上は自分より高いアルハを何とか意のままに しようとするが、その理由を Cummins は次のように説明してい る。

It is doubtful whether the kings and aristocracy even believe in the Dark Powers any longer; but the leaders need a symbol of their power base, particularly they need the One Priestess as a figurehead. The child chosen to become the Priestess is, then, their ultimate human sacrifice, symbolic of their devotion to destruction. (41)
つまり、娘としてのアルハは、支配する男にとって必要であり、コ シルは支配者である王の代理人なのである。

  アルハ=テナーは、異性の来訪を機に、長い眠りから目覚める 「眠り姫」ともいえるが、これら母からの脱出は、時が熟したという より、事態が先に進む格好で進められる。コシルへの恐れが、彼女 を後押しし、テナーは自分が、どこからどこへ行くのかを十分認識 していないまま脱出しなくてはならない。さらに、脱出の過程で、 止めようとしたマナンが死に、脱出後地震がおきて、地下にいたコ シルは当然死んだとされる経過は、テナーの心に大きな傷を与え る。この脱出は、確かにテナーの再生なのだが、同時に自分の中の アルハを断ち切り、母たちと断絶させられる経験でもあった。テ ナーが、ゲドを殺して墓所に戻ろうかと悩むのは、この手ひどい断 絶の痛みのためである。

  脱出後テナーは一時開放感にあふれるが、徐々に不安が増してい く。彼女はゲドに、"Will you stay with me there?"(291) と質問 するが、ゲドは同意することができない。Wizard で、ゲドが影を追 いつめていく航海において、彼には友人の同行も、父としての年長 の助言者オジオンと帰るべき所があったことと比較すると、テナー は圧倒的に孤独である。彼女は確かに、変化を許さない隷属の闇か らは逃げた。しかし同時に、その闇の中に母とアルハを置き去りに したのである。Tombs の終末に漂う不安感は、根をたたれ、佇むテ ナーのこの不安を反映しているとおもわれる。

  さて、その後のテナーはどうなったのだろうか。脱出から25年過 ぎ40代になっている彼女を、Tehanu は次のように描写する。

She had felt herself the one left outside, shut out. She had fled from the Powers of the desert tombs, and then she had left the powers of learning and skill offered her by her guardian, Ogion. She had turned her back on all that, gone to the other side, the other room, where the women lived, to be one of them. A wife, a farmer's wife, a mother, a householder, undertaking the power that a woman was born to, the authority allotted her by the arrangements of mankind. (509)
つまり、彼女はエレス・アクベの腕輪をゲドとともにもたらした the White Lady として、オジオンに魔法を学ぶが、コシルのよう に準男として生きるのを拒否して、女の領域に入り、農夫の女房ゴ ハ(Goha)となり、市井の人となったのである。これは逆から考え れば、脱出後の社会も、準男か、伝統的女性役割以外のものを彼女 に提示することはできなかったことを意味するのではないだろう か。アチュアンの墓所を脱出して自由になれたかに思えたテナー は、実は選択肢をもらっただけだったといえよう。大巫女のように、 人生がそのまま立場に同化することは要求されないにしても、与え られた役割を引き受けるということについては、アチュアンと大き な違いはなかったのかもしれない。そして今、生み育てた子どもた ちは独立し、夫もなくなり、男の好奇心をひく年齢でもなくなって、 ゴハであるテナーには何の力も残っていないように思われた。

                               V

  Uで考察したテナーの生い立ちを考えると、彼女が、顔と頭の右 半分と右手に骨まで達するやけどを負った少女を、半ば衝動的に引 き取ったのは納得できるのではないだろうか。この少女は、アルハ 、つまりテナーがアチュアン脱出の際に断ち切った自分なのである。 泥棒も乞食もするグループのなかで、父親が特定できるかどうかも あやしい生まれで、6、7歳と思えるのに2歳の体重しかないこの 少女に、テナーはアチュアンのことばであるカルガド語で、「燃え る」を意味するテルーという名をつける。つまり、「焼かれた」テ ルーは、「食われた」テナーの内なる子どもなのである。Adrienne Richは、女の心のなかに住む女の子について次のように言う。

There was, is, in most of us, a girl-child still longing for a woman's nurture, tenderness, and approval, a woman's power exerted in our defense, a woman's smell and touch and voice, a woman's strong arms around us in moments of fear and pain. The cry of that female child in us need not be shameful or regressive; it is the germ of our desire to create a world in which strong mothers and strong daughters will be a matter of course. (224-225)
さらに、テナーは、テルーを虐待した者たちへの怒りを表明するな かで、かつて自分をかわいがってくれたマナンが宦官であったこと にも改めて気づき、"What's a child for?"(503) と問いかける。
To be used. To be raped, to be gelded―Listen, Moss. When I lived in the dark places, that was what they did there. And when I came here, I thought I’d come out into the light. I learn the true words. And I had my man, I bore my children, I lived well. In the broad daylight. And in the broad daylight, they did that―to the child.                (530)
従って、テナーがテルーに対し、名をつけ、守り、たえず気にかけ、 教え、そして思い悩むことは、テナーのなかのアルハを生き直すこ とでもあるのだ。

  テナーは、はじめてテルーをみた時、"I served them and I left them, I will not let them have you." (486) という。ここでの themとは、彼女がつかえた「名なき者たち」であろう。つまりテ ナーは、力を不当に行使され、しかもその力の痕跡が深く刻まれた テルーが、狂気や破壊に引っ張られて「名なき者たち」の餌食とな ることからテルーを守ると宣言したのである。それは、ことばを変 えれば、無力化のわなと戦うことである。虐待しレイプした加害者 が何ら責任をとることなく、免罪される一方で、被害者は結果のす べてを引き受けさせられるばかりか、害をうけたことで責められる という社会の構図は、被害者を孤独と無力感でさいなむ。テルーを 生んだ女は、男たちから乞食をさせられるが、「逃げればいいじゃな いか」という村人の忠告に、「逃げてもどこまでも追いかけてくる」 と話したという。対決できなかった彼女は、結局男たちに殺される。

  テナーとテルーに対する攻撃もすさまじいものだ。テルーを虐待 した男たちは執拗にテナーたちを襲おうとするし、女性嫌悪を如実 に示す魔法使いアスペンにも魔法をかけられる。これは、ゲドが、 "If your strength is only the other's weakness, you live in fear." (665) と述べるように、無力感を乗り越えようとする弱者である女 に対しての、強者である男の不安感の反映だろう。

  テナーは、テルーに安心を与えようと心をくだくが一方、男の脅 しを経験した後、恐怖で外にでたがらないテルーを心を鬼にして 引っ張り出す。それは、脅えれば脅えるほどかえって相手の罠に落 ち、無力とあきらめの牢獄に自ら捕えられてしまうからである。こ のようなテナーの努力と、テナーにつながる人々のなかで、テルー は、徐々にアルハにはなかった友達、年長の援助者、そして帰るべ き場所をもっていくのである。

  テルーを守ると同時に、テナーは、テルーの将来のことを思い悩 む。それは、テナーがアチュアン脱出後、テナーとして生きる場所 はなかったものの、the White Lady かゴハという役割を選ぶ自由 はあったのに対して、「焼かれた」テルーには、伝統的な女性役割と いう道は不可能に思えたからである。つまりテルーは、これまでの ジェンダーに収まらない、ジェンダーを問いかける者なのである。 テナーは、テルーの仕事として「機織り」や「人を癒すまじない女」 を、自分で思いついたり人からアドバイスをうけて考えるのにもか かわらず、何か満足できないのは、これらの仕事が、ジェンダーの 影を帯び、しかもテルーのやけどの容姿をどこかで意識しているか らに他ならない。テナーは、テルーを欠けた残骸としてではなく、 丸ごとうけとめたいと思っているのである。

  さらに、「物語」が、テルーの心を癒して、新たな主体性をかちと るのに大きな役割をはたす。特に「竜の物語」がテルーを魅了する。 Tombs では、女と「名なき者たち」が結びつくのに対し、Tehanu では、女は竜と結びつく。ここに、Len Hatfield は、「他者」という 共通項をみいだした(48)。男社会の中で、女が周縁に追いやられ、 他者として扱われることは、女の外国人であるテナーも例外ではな いが、竜のうろこのようなやけどを負い、未来を奪われたかのよう にみえる「女の子ども」テルーは、幾重にも他者性を帯びた者とい えるだろう。だが、「竜であり、かつ人である者たちがいる。野性と 知恵を同時に備え、人間の頭と竜の心をもった my people がいる」 というキメイの女の話は、「名なき者たち」の中に埋没させられてい た女に、竜という名をつけて、女を闇から光のなかにひっぱりだし た。

Farther west than west
beyond the land
my people are dancing
on the other wind.           (Earthsea  493)
この話の中にあるものは、ルグィンの次のことばにもつながってい る。
In our society, women have lived, and have been despised for living, the whole side of life that includes and takes responsibility for helplessness, weakness, and illness, for the irrational and the irreparable, for all that is obscure, passive, uncontrolled, animal, unclean the valley of the shadow, the deep, the depths of life. All that the Warrior denies and refuses is left to us.... The night side of our country. If there is a day side to it,... We are only going to get there by going our own way, by living there, by living through the night in our own country.               (Dancing  116-117)
テルーを心の深いところで癒し励ますこの物語は、アチュアン脱出 時のテナーは持っていなかったものである。この物語は、「私はどこ へ進むべきなのか」を明確にしている。特に、これまでの社会の枠 組みが崩れ始めたアースシー世界の今、天地創造の歌(the Creation) でいう 'The making from the unmaking,/ The ending from the beginning,/ Who shall know surely?' (653-654) とい う社会状況の今に、まるで矢のように、未来を指し示すものである。

  このようにして、テナーとテルーの「クモの巣のような橋」は 徐々に強くなっていった。テルーは当初無表情で、反応のない、血 が通っていない石のようだったが、少しづづ変化していく。初めて の積極的な人との関わりは、力を使い果たしたゲドに対するもので あろう。テルーは、彼の痛みを察し、ゲドを守るために、恐れてい た村を通って手紙を届けるという行為を自分から申し出たのであ る。また、泣くこともできなかったが、自分を虐待した男たちの一 人から身を隠し、堅く体を閉ざした彼女の顔に、テナーの涙が落ち ると、うめくようなすすり泣きの声をあげてテナーにしがみついて いった。ワンピースを作ってくれたテナーに「よく似合う」とほめ られても最初は横を向いたが、すぐ「ワンピースきれい」とテナー の気持ちを思いやったり、泣いたテナーをなぐさめたりと、自己確 立も進んでいった。

  つまりテルーは、保護され癒される客体的は存在から、新しい主 体性をもつ存在へと変わっていくのだが、この転換点は、アスペン の魔法にかかって考えることのできなくなったテナーの中から、カ ルガド語で考えるアルハがよみがえり、テナーとテルーをアスペン から救った時ではないかと思われる。テルーを、生き直されたアル ハと考えるのなら、母としてのテナーが娘(テルー=アルハ)を守 るという関係はもうここでは成立していないと思えるからである。 さらに、Tehanu の終末で、アスペンの罠に落ちたテナーとゲドを 救ったのは娘テルーであった。娘の方が母を守ったのである。この 時テルーは、最古の竜カレシンを呼び寄せ、「のたうちまわっている 闇である」アスペンを滅ぼすが、同時に自分が、竜であり人である テハヌー(Tehanu)であることも明らかにする。テハヌーとは、 「白鳥の心臓」とも「矢」とも呼ばれる白い夏の星の名前なので、 テハヌーは、変身の象徴(Cummins 211)とも、未来を指し示す矢と も考えられる。つまり、生き直されたアルハであるテルーは、アル ハにはなかった友や援助者や帰るべき場所を持ち、どこへ進むべき かという「竜の話」を内面化することで、母をも守る新しい強い自 己を確立したといえよう。

  このようなテナーとテルーとのつながりを母―娘関係ととらえる と、母と娘が互いの力を補強しあって、しかも2人の強い自己を生 み出しているようにみえる。これは、Barbara Johnson が、「成熟と ジェンダーのありうべき姿を示す既存のモデルの変更の試み」とし て挙げた中の一つに該当するのではないだろうか。

Through an analysis of gender bias in models of human psychology and development, it should be possible to rethink the notion of maturity to include more of the spectrum of relationships than an idealized version of autonomy.... A tolerance for incomplete separation could be seen as differently mature from an insistence on total independence. (142-143)
アチュアンの脱出が、母親を切り離す娘の成熟の「既存の」モデル とするのなら、Tehanu で希求されているものは、共に生きる母娘 関係である。母テナーは、娘と、あるいは娘を生きることで、世界 の見直しを行ない、新しい自己を生み出した。娘テルーは、母と、 あるいは母の中で生きることによって、主体性を確立したのであ る。

                               W

  さて、このようなテナーとテルーの姿は、Tehanu による見直し という観点から考えるとどのように位置づけられるのだろうか。 アースシーシリーズにおける、Wizard でのオジオンーゲド、Shore でのゲドーアレンという父―息子関係が互いによく似ているのに比 べ、TombsTehanu は、母―娘関係において対照的である。 Tombs での、家父長である大王の権力に奉仕する母、甘やかし、教 え、そして支配する母と、それに反抗し、母を捨て去る娘という関 係に対し、Tehanu では、母―娘ともに、男中心社会を批判し、社会 を「見直す」のである。つまり、幾重にも他者性を帯びていた娘テ ルーは、未来の大賢人として、なくなったかにみえた自分の未来を 奪い返した。また、社会の中の役割しか選ぶことのできなかった母 テナーは、世界の見直しの過程で、自分の人生の、アルハもthe White Ladyもゴハもすべてを包む、統一的でもあり多面的でもあ る主体を生み出したのである。

  Tehanu が、アースシーシリーズに付け加えられたことで、この 四冊は、ゲドの話(WizardShore)対 主にテナーの話 (TombsTehanu)、あるいは思春期の 話(WizardTombs)対 思秋期の話(ShoreTehanu)と対比させることもできる。だが、 リビジョンとの関係では、既に言及したように、Tehanuが、男の英 雄ゲドの人生とのみ思われていた3部作を相対化したことが最も重 要であろう。加えて、Tehanu の構造は、Roberta Seelinger Trites のいう入れ子状の構造 'story-within-the story'(111)といえるの ではないだろうか。

  つまり、Tehanu で、テナーがテルーとともに生きることが、テ ナーのかつての自分アルハを生きることでもあるので、Tehanu は 内部に Tombs を持っていると考えられる。従ってプロットは、直 線的というより、自己回帰的である。すなわち、TehanuTombs のリビジョンなのである。しかも、その展開に、「竜の話」が埋め込 まれ、それが物語の方向を示しているのである。したがって、 Tehanu の円環的な構造それ自体も、妊娠―出産/誕生なのである が、その中で、母テナーも娘テルーも、ともに新しい自己の妊娠― 出産/誕生を達成するのである。

                               注

 1  清水真砂子訳、『影との戦い』(岩波書店)など。
 2  これに関しては、 98年10月の日本イギリス児童文学会大会において、「Tehanu―見直す女と見直される世界」という題で発表した。

                               引用文献

Cummins, Elizabeth. Understanding Ursula K. LeGuin. Rev. ed. Columbia: University of South Carolina, 1993.

Dinnerstein, Dorothy. The Mermaid and the Minotaur. New York: Harper & Row, 1976.

Hatfield, Len. " From Master to Brother: Shifting the Balance of Authority in Ursula K. LeGuin's Farthest Shore and Tenhanu."       Children's Literature 21. Yale University, 1993. 43-65.

Johnson, Barbara. A World of Difference. Maryland: The Johns Hopkins University, 1989.

LeGuin, Ursula K. Dancing at the Edge of the World: Thoughts on Words, Women, Places. 1989. New York: Harper & Row, 1990.

----. The Earthsea Quartet. London: Penguin, 1992.

----. Earthsea Revisioned. Cambridge: Green Bay, 1993.

Rich, Adrienne. Of Woman Born. 1976. New York: W. W. Norton, 1986.

Trites, Roberta Seelinger. Waking Sleeping Beauty. Iowa: The University of Iowa Press, 1997.

吉田純子 「アメリカ思春期小説におけるジェンダーの見直し」 『英語青年』1997年4月: 32-34.

大学院学生(1998)

The Chukyo University Society of English Language and Literature
Last modified: Oct 27, 2000

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