『セールスマンの死』
ウィリー・ローマンの悲劇

萩 三恵

はじめに

人が自ら命を絶とうとする瞬間を見るとき、そこに彼の秘密を探すのは、の空 気におそわれる感覚をおぼえるためだろう。現在においては悲劇は不可能であ ると言われながらも、それは様々に変容しつつ、我々の心を揺さぶり、魅了し てやまない。

「セールスマンの死」(Death of a Salesman, 1949)で悲劇の回復を試 みたアーサー・ミラー(Arthur Miller, 1915- )は、"I believe that the common man is as apt a subject for tragedy in its hightest sense as kings were."と、これまでの悲劇についての定義を徹底的に論破しようとする。 ミラーの信念は、「セールスマンの死」が悲劇として書かれ、その悲劇として の地位の擁立を表明するものとして考えられるのである。

「悲劇」のビジョンが衰退の道をたどろうとしている現代において、時代にふ さわしい型の悲劇を追及しようとするミラーにも、筋ん構成には慎重な計算が みられる。「悲劇は、偉大であると同時に、ある大きさを持って、それだけで 完結しているひとつの行為の模倣である」という悲劇の定義に従って、「セー ルスマンの死」は、主人公、ウィリー・ローマン(Willy Loman)が夜遅く帰宅 してから深夜までと、翌日の朝から深夜までを2幕に分けて、およそ24時間の 出来事で完結している。しかも、その間にはフラッシュ・バックによる回想シー ンが挿入され、およそ一日という短い時間に、ウィリーを悲劇の主人公にまで 高めうる、厳粛かつ壮大な要素が巧妙に配慮されている。

  しかしながら、悲劇という総括的名称は、数多くの学者たちを満足させること なはく、「セールスマンの死」は、擬似悲劇論を説く批評家たちの鋭い指摘の 的とされた。アリストテレスの悲劇の定義に基づく批評家たちは、主に次の2 点を強調してきた。「一つは、ウィリー・ローマンの性格の問題点であり、他 の一つは、この作品がもっと重厚な社会批判的側面の問題である。」つまりは、 ウィリーの〈判断の誤り〉は悲劇に値せず、さらに、当時の社会を作品に反映 させようとするミラーには、悲劇の創造を認めないということになる。そうな れば、ウィリーの破滅について複雑な因果関係のもとに積み重なっている、内 的要因と外的要因との割合を論証することが、唯一の解決策であると同時に、 最大の課題になることは逸れないだろう。

   「すべての悲劇にはCom;licationの部分とDenouementの部分とがある」とすれ ば、「セールスマンの死」も、第1幕の〈紛糾〉と、第2幕の〈解決〉によって 形成されていると言える。そこで、本論では次のように論旨を展開する。まず、 ウィリー自滅の因について探究し、つづいて、クライマックス・シーンの〈急 転〉と〈発見〉そして〈受難〉という一連の流れと主人公の心理状態について 考察、そして、ウィリーの墓場に最後の手掛りをもとめて、「セールスマンの 死」の悲劇性について論証することにする。

1.ウィリーの世界観

 The first image that occurred to me which was to result in Death of Salesman was of an enourmous face the height of the proscenium arch world appear and then open up, and we would see the inside of a man's head. In fact, The Inside of His Head was the first title.
これはあまりにも有名なミラー自身による序文からの引用である。「彼の頭の 内部」が最初の主題であったという作者は、さらに、次のように説明している。
The Salesman image was from the beginning absorbed with the concept that nothing in life comes "next" but that evrything exists together and at the same time within us; that there is no past to be "brought forward" in a human being, but that he is his past at every moment and that the present is merely that which his past is capable of nothing and smelling and reacting to.
独自の時間意識の中に過去と現在とを共存させることにより、主人公ウィリー の追憶や回想は、現実をしのぐリアリティーを達成しているといえよう。なぜ なら、「彼の頭の内部」には、ウィリーを破滅にふれることができるからであ る。

  「セールスマンの死」は、「草原と木々と地平線を思わせる」フルートの旋律で 幕を明ける。やがて、フルートの音色はウィリーの心の中で、彼の父のイメージ と結びついていることがわかる。自分の手でフルートを作ってそれを売りながら、 家族を幌馬車に乗せて西へと旅を続け、アメリカ大陸を横断し、やがて、アラス カへと旅立った父親の思い出である。

  フルートの音色と同じように、もう一つ別の記憶を呼び起こす特別 な音楽がある。それは、兄、ベン(Ben)がウィリーの前に現れる時、それを知ら せるかのように流れ、彼の姿が幻想でしかないことを象徴するような穏やかな響 きをもつ。冒険心にとんだウィリーの兄は、父親を追ってアラスカへ行ったつも りが、偶然にもアフリカにたどりつき、ダイヤモンドの鉱山を掘り当てた幸運の 持ち主である。

  最後の記憶は、あるセールスマンについてのものである。ウィリー はかつて、デイブ・シングルマン(Dave Singleman)なるセールスマンに強烈な印 象を受けた。彼は84歳という高齢にもかかわらず、その仕事ぐりは鮮やかに映っ た。その老人はホテルの部屋から一歩も出ずに、電話一本で商品を売りさばいて いたのである。そして、盛大な葬儀で送られるセールスマンのような人物に、ウィ リーは憧れを抱くこととなった。

  このように、ウィリーの無意識的あるいは意識的回想は、彼の夢と 理想の核を成しつつも、しかしながら、その実体は空洞えあって、到達不可能な ものとなってしまった。アメリカの最も良き時代であれば、父親のように自由と 男らしさを体現できたのかもしれない。同様に、セールスマン全盛期の自由競争 の時代であれば、兄のように成功できたかもしれない。だが、アメリカはもはや かつてのアメリカではない。現実を直視しない限り、アメリカン・ドリームの崩 壊の波にのまれることは避けがたく、ウィリーはこの壮大な夢の重圧に苦しまな くてはならないのである。

  父の時代、兄の時代、そしてウィリーの時代へと、途絶えることな く受け継がれてきたローマン家の開拓精神は、ウィリー自身が一生の仕事として セールスマンを選んだことで、皮肉にも誤った人生観を育くむこととなった。 "Because the man who makes an appearance in the business world the man who creates personal interest, is the man who gets ahead."(146) という言葉は、セールスマンの人生哲学に基づいたウィリーの教育方針である。 彼は、努力せずに栄光に至る道を子供たちに説き、ビフの泥棒癖を黙認、時には、 奨励するような教育をしていた。勤め先のスポーツ・ショップからフットボール を盗ん職を失ったこと、また、資金援助を願いに赴き、ビル・オリバーの万年筆 をポケットに突っ込んでしまったことなで、ビフによるこれらの告白は、それを 端的に示している。

  ここで、ウィリーから悲劇の主人公としての資格を奪おうとする、 第一の問題に答えなくてはならない。それは「ウィリーの歪曲された価値観であ り、彼の知性の限界や認識力の欠如」を指摘するものである。しかし、ミラーが 創り出した悲劇と平凡人の関係は、重要な定義によって支えられていることも確 かであろう。

The quality in such plays that does shake us, however, drives from the underlying fear of being displaced, the disaster inherent in being torn away from our chosen image of what and who we are in this world. Among us today this fear is as strong, and perhaps stronger, than it ever was. In fact, it is the common man who knows this fear best.
ウィリーが選んだイメージは、家長である自分を中心に、妻と自慢の息子たちが 囲んでいる絵であり、会社では、ニューイングランドになくてはならないセール スマンとしての存在という図である。ところが、父親としての地位もセールスマ ンとしての立場も危うくなってしまったウィリーの目前にあるのは、こうしたイ メージからかけ離れた、受け入れることを望まぬ現実だけであった。これこそが 「根本的な恐怖」を引き起こすものとなって、悲劇を成立さるとミラーは定義す るのである。

  また、ウィリーの〈紛糾〉の様子に、リア王の姿を想像することは 容易であろうし、ミラー自身もそれを意図しているようである。自らが支配する はずの王国を追われる老王の不幸が、娘たちの愛情と信頼を失うことに由来する という点では、そこにも、現代人のウィリーが感じる「疎外感」と同質の恐怖感 が存在するはずである。世界観の崩壊が招く悲劇を新たに想像するミラーには、 ウィリーの性格ゆえの〈判断の誤り〉を〈悲劇的な欠如〉として扱うことは可能 であり、むしろ、注意深く取り入れられた悲劇的要素であると言えよう。

  極めて平凡な庶民である主人公ウィリーは、自分の世界観を形成す るにあたって、父、兄、ある老セールスマンの3人の人物を模範として、独自の 価値観を見出した。それは、人に好かれていれば必ず成功するという、一見単純 で浅はかなものであるが、ウィリーの偶像ともなったこれらの男性の人生は、ア メリカ人であるウィリーには、魅力を感じずにはいられなかった。なぜなら、彼 らの一生は、ウィリーではなくても誰もが信じ、求めてやまない「アメリカの夢」 を示すものだからである。そして、その夢を家族や教育方針に取り入れたときに、 それはもはや、現実不可能であるという状況に直面する。このことによって、主 人公は「疎外感」という恐怖感に脅かされることになるのである。

2.ウィリーの叫び

  セールスマンとして人生を捧げてきたウィリーは、とりとめのない幻想に捕らわ れて、その世界から一歩も逃れられないである。この心的状況をつくりだす因子 は、彼を取り囲む生活状況にも存在し、それが果たす効果の重要性を指摘するの は、ブライアン・パーカー(B.Parker)である。彼は次のように言う。
Slightly more abstract, is the play's use of trees to symbolize the rural way of life which modern commercialism is choking.
かつては田園地帯であった家のまわりは、塔のようなアパート群にとって代わら れた。植物の種を蒔いても育たない裏庭には、昔、息子のビフとハンモックを吊 した2本の楡の木も今はない。工業化、都市化の波がに急速に人々の生活に襲い かかってくていることを示している。

  ビジネスの世界でも人間味は失われ、全てが機械的に処理されう社 会が始まった。34年間会社のために働いて、いまや63歳の人間を効率重視のため に解雇する組織に対して、"You can't eat the orange and throw the peel away -- a man is not piece of fruit."(181)とウィリー、いや、ミ ラーは弾劾する。

  このように、労働者階級の人々に対して深い、純粋な同情を寄せて いるミラーの「セールスマンの死」の前には、しかしながら、第2の問題が立ち はばかる。つまり、この作品は「とかく悲劇性を減少させたり、制御したりして しまう、社会改良的側面をもちがちである」というのである。ところが、反悲劇 論の批評家たちに対して、ミラーは、堂々たる態度で社会劇を論じている。

The social drama, as I see it, is the main stream and the antisocial drama a bypass. I can no longr take with ultimate sriousness a drama of individual psychology written for its own sake, however full it may be of insight and precise observation. Time is moving; there is a world to make, a civilization to create that will move toward the only goal the humanistic, democratic maind can ever accept with honor. It is a world in which the human being can live as a naturally political, naturally privete, naturally engaged person, a world in which once again a true tragic victory may be scored.
第2次世界大戦のアメリカ演劇において、ミラーと影響力を二分するのがテネシー・ ウィリアムズ(Tennessee Williams)であるが、ウィリアムズが心理劇作家とされ るのに対して、ミラーは個人の心理を単に個人的な問題として考えるのではなく、 経済的であれ、政治的であれ、属るる社会との関連で捉えるという特徴があると 言われる。そうすることによって、劇作家は、個人を様々な局面で挫折させる状 況を提起しなければならないと主張する。「社会劇について」("On Social Plays")における悲劇創造の宣言は、全く異質な社会劇と悲劇とを融合させ るという意図によって唱えられたのである。

  隠された過去の過ちが息子によってあばかれることで、クライマッ クスへ突入する。ウィリーの最後の数分間は個人の心の葛藤が生き生きと表現さ れているばかりか、これまで彼の人生を支えてりた価値観への、今なお強い執着 をはっきりと見せてくれてもいる。第2幕の終わり近くで、息子ビフが、 "Pop, I'm a dime a dozen and so are you."(217)と迫ると、 "I am not a dime a dozen! I am Willy Loman and you are Biff Loman!"(217)と憤然として言い放つ。レオナード・モス(Leonard Moss)が、 "the two but thwarting the other's wel-being, comprise the poles of an irreconcible,"と述べているように、実に皮肉なシーンである。自分を 知らなければいけないと激情を露にするビフが、精神的にも燃え尽きて、ウィリー にすがって泣くと、ウィリーはビフの涙に愛情を取り戻したと勘違いし、失いか けた信念を再確認すると、安心して幻想の世界へと入っていく。

  ミラーの次の言葉は、ウィリーの自殺を「敗北の死」ではなく、 「悲劇の死」と論じるもので、悲劇論のなかにあっては極めて重要なものの一つ である。

As a general rule, to which there may be exceptions unknown to me, I think the tragic feeling is evoked in us when we are in the presence of a character who is ready to lay down his life, if need be, to secure one thing -- his sense of personal dignity. From Orestes to Hamlet, Medea to Macbeth, the underlying strggle is that of the individual atempting to gain his "rightful position" in his society.
彼は、誇りをもって選んだセールスマンの仕事を一方的に解雇され、そして、こ の上ない愛情と期待を寄せていた息子によって、忌まわしい過去の行いが暴かれ たとき、もはや、父親としての立場は崩れ去ってしまった。まさに、絶望のどん 底だ。しかし、ウィリーは、泣き崩れて懇願するビフの姿に、皮肉にも、望みを 見つけたのである。したがって、ウィリーの自殺は、自分自身の人生に絶望して の逃避ではなく、息子の信頼を再び手に入れるための最後の手段であったと確認 することができる。つまり、ウィリーは、自分の「尊厳」を守るために死を選ん だという定義が成り立つのである。それも、独自の人生哲学によって築かれた 「「正当な」地位」、すなわち、家庭における家長、あるいは、父親としての立 場、そして、セールスマンという仕事を通しての、社会における個人の位置を獲 得するためにである。

  兄に導かれて幻想の世界へと歩いていくウィリーの姿は、死神に取 りつかれた者の後ろ姿そのものであることに、観衆は純粋な恐怖を覚えることだ ろう。ベンは第1幕から父の思い出よりも強烈な力でウィリーを支配している。 ウィリーが現実回避の様子を見せると広がる、幻想の世界だけに存在するベンで はあるが、彼は過去の空間から現実の空間へと、自由に移動することができる。 また、フラストレーションに苦しむウィリーに、"When i waled into the jungle, I was seventeen. When i walked out I was twenty-one. And, by God, I was rich."(157)と答える彼の言葉は、ウィリーにとって魔の呪文 になてしまっている。ベンは、ウィリーに夢を抱かせた成功の権化であるだけで なく、自滅へと駆り立てる死神であったと考えられる。

  もう一つ、ベンには大きな力があった。金の鉱脈を掘り当てて成功 したことを知らせにウィリー家を訪れたベンは、あのとき、つまり、ウィリーを アラスカへの旅に誘った時に、ウィリー自身がセールスマンの仕事を選んだこと を思い出させている。ウィリーはベンの助言を断っていたのだ。だから、ウィリー は、ベンのように成功する代わりに、「成功の夢」を追い続ける苦しみを味わう ことになったのである。それ故に、ウィリーの頭の中でくり返されるベンの呪文 は、ウィリーが人生に失敗する原因の根本となりながら、悲劇的アイロニーを創 り出している。今まさに、命を終えようとするウィリーにとっての「ジャングル」 は、ベンが入って行ったそれとは異なる死のシャングルなのである。
  そうして、"It does take a great kind of a man to crack the jungle... The jungle is dark but full of diamonds, Willy... One must go in to fetch a diamond out."(218)とかつてと同じように誘われ、今度はベンに ついていく。今となっては、日の当たらない裏庭と何の変わりもなく、永遠に光 が差すことはない、闇につつまれたジャングルへ。

3.ウィリーにレクイエムを

  「リンダは花ををき、ひざまずき、うづくまる。一同は、じっと墓 を見下ろす。」舞台は墓場にかわる。ウィリーの葬儀には、たった4人の参列者、 つまり、妻のリンダ(Linda)、息子のビフとハッピー(Happy)そして、ウィリーと 親しかった隣人のチャーリィ(Charley)がいるだけである。ウィリーの憧れだっ たデイブ・シングルマンのような盛大さはどこにもない。この情景は、ウィリー が決して「人に好かれる」人物ではなかったことを表し、リンダの"Why didn't anybody come?"(221)と故人の気持ちを代弁するかのような言葉には、ウィリー の抱いた理想の愚かさをその答えとするしかない。

  リンダの嘆きの言葉のように、「レクイエム」では、ほかの登場人 物もそれぞれに故人ウィリーに対する感懐を述べるようになっている。ウィリー が死んだ今となっては、彼が自殺によって残そうとした保険金を、ビフがどのよ うに受け止めているかが気になるところである。実質的に ウィリーの死は、ビフにとって役に立ったのだろうか。そうすることで達成され る、父親としての地位回復の夢は実現したのだろうか。そのため、4人の言葉の 中でまず注目されるのは、ビフのものである。"He had the wrong dream. All all wrong. He never knew who he was."(221)第2幕で、ビフ の気持ちは明らかなので、この見方については予想可能であろう。

  もう一つ別の重要な見解はチャーリィのものである。"Nobady dast blame this man. A salesman is got to dream, boy. It comes with the territory."(222)というチャーリィの言葉からは、ビフがウィリーの死を 非難しているのに対して、チャーリィが、現実的な目でウィリーの死を見つめ、 その上で、無意味な死を弁護していることが分かる。この対照的な二つの態度は、 ミラーが「セールスマンの死」に意図した基本的な意義へと発展することになる。 モスはつぎ のように分析している。

Some spectators have declared Willy to be a passive victim of society -- Miller's vehicle for an attack on American institutions or values... For another critic the play is "symbolic of the breakdown of the whole concept of salesmanship inherent in our society."
この劇の観客であれば、おそらく、、おのいずれかの見解に組することになるだ ろう。チャーリィのように現代社会によるセールスマンの夢と挫折を描いた劇と 考える人は多いだろうし、ビフに代表されるように、間違った夢、見当外れの期 待に押し流される一人の人間の物語と考えることもできよう。
  最後の望みに賭けた主人公の死、息子に対する罪意識からの苦悩、 そして、アメリカン・ドリームと個人的な思い出によって造り出された理想とそ の崩壊。これらは確かに、「セールスマンの死」を悲劇とみなすことを可能とす る諸要素である。しかし、ここに至っても、重大な問題がこの作品の悲劇性を阻 んでいる。それは、「疑問符であり、神秘であり、隠された原因である」とされ ている。

  第3の問題として、「悲劇には不可欠とされる一つの次元」の欠如 を指摘する批評に答えるために、ミラーが「レクイエム」の部分を付け加えたの だとしたら、深遠な意図をもった墓場の部分は極めて重要であるといえるだろう。 この短い「レクイエム」には、もはや主人公は存在せず、ただ故人への思いを告 白するための時間だけが与えられているのも、ウィリーの死がもつ深刻な意味へ と観衆を導くためであろう。

  悲劇と疑問符の関係については、ミラー劇を、一貫したテーマと作 者の悲劇創造の理想を合一させて考えることができる。ミラーはそれを次のよう に論じている。

No tragedy can therefore come about when its author fears to question absolutely everything, when he regards any institution, habits or custom as being either everlasting, immutable or inevitable.
「すべてを徹底的に問う」行為なしに、悲劇は語れないという作者の態度には、 悲劇が疑問符に基づかなければならないことへの意識だけでなく、社会劇作家と してのミラーの信念が強く表されているところだと思う。

  作者自身が経験した歴史的事件に焦点をあててみよう。「セールス マンの死」執筆に際して、ミラーに影響を与えた事件といえば、1930年代の大不 況であったと考えられる「大恐慌」はアメリカ人を夢の崩壊という厳しい現実に 直面させた。そして、彼れが抱いていた価値観が通用しなくなったことは大きな 喪失感につながり、彼らはただその大きな波に翻弄されるだけだった。誰しもが、 自分自身の価値観を問い直す必要に迫られたことだろう。ミラー自身が問い、学 んだものとは、不安定な世界では個人から人間性は剥奪され、一人の人間のアイ デンティティはあやふやとなり、やがて消滅してしまうという事実なのである。 ミラーは真実の追及、つまり「アイデンティティ」の追及こそが生きる証の全て であるという結論に到達したにちがいない。

  「レクイエム」において、ウィリーの死に疑問抱かせ、その意味に ついて考えさせようとする作者の意図は、ビフ、チャーリィに続いて、リンダに よって何度もくり返される"I can't understand it."(221)と言う合 詞に集中される。反悲劇論の立場にあるノーマンド・バーリン(Normand Berlin) も「本当にリンダにはわからないのだろうか、と問うてみることが必要である」 との点を問題視している。リンダは所謂、永遠の妻の像として、ウィリーの現実 生活を見守ってきた。また、彼女は現実を捉えることができるため、ウィリーに 対して実質的なアドバイスをするともできた。しか、リンダには決してウィリー の生き方を理解しきれないという欠点が与えられている。彼女はウィリーの「成 功の夢」を想像できない、現実的な性質の持ち主だったのである。そうなれば、 ベンがウィリーをアラスカへ誘った時、セールスマンという仕事の将来性を信じ て夫を引き止めたのが、他ならぬ、良妻のリンダであったということも納得でき る。リンダにも冒険精神があったとしたら、ウィリーは選ぶべき道を間違えるこ とはなかったのかもしれないと思うと、皮肉な運命がもたらす矛盾を感じずには いられない。

  論じたいのはミラーの悲劇論ではないというクリントン.W.トゥ ローブリッジ(Clinton W.Trowbridge)は、次のようにウィリーの死を分析してい る。

It is the idea that tragedy deals ultimately with paradox. On the one hand, it posits the destruction of the gero; its line of section must be, in fact, one in which the sense of doom grows stronger and stronger. On the other hand, we must never for a moment regard the tragic hero's struggle against his fate as absurd, which would be the case if his destruction were completely inevitable. The essential paradox of tragedy, then, lies in the fact that even though the tragic hero is destroyed, his struggle "demonstrates the indestructible will of man to achieve his humanity."
「セールスマンの死」を最終的に左右するものとして、彼は矛盾という要素を指 摘する。悲劇と矛盾の間には主人公の運命を決定づける過程が認められ、さらに、 その場合にこそ、彼の死には悲劇性が与えられ、とりもなおさず、それは決定的 な「宿命感」として機能しながら、「人間性獲得への不滅の意思を示す」行動へ 彼を促し、悲劇の主人公を誕生させるというのである。
  リンダの長い独白を聞く観衆は、独り残された者の悲しみが痛々し く感じられる。しかし、リンダは、ウィリーに道を誤らせた罪を負わなければな らない。そのためにも、これからのリンダの人生は、決して解放されることのな い謎に苦渋する日々となるだろう。ウィリーに死をもたらした矛盾の一端をリン ダに認めつつも、悲しみにうちひしがれた彼女の心の状態には、悲劇の高まりを 感じることができるであろう。
Forgive me, dear, I can't cry. I don't know what it is, but I can't cry. I don't understand it. Why did you ever do that? Help me, Willy, I can't cry.... I search and search and I search, and I can't understand it, Willy. I made the last payment on the house today. Today, dear. And there'll be nobody home. We're free and clear. We're free. We're free.... We're free.... (222)
そうして、より一層深い哀愁の気持ちへ観客を誘う「レクイエム」は、悲劇的な 死を謳うかのようなフルートの音色とともに幕をおろすことになる。

まとめ

  「2幕と鎮魂曲からなるある私的な会話」は、こうして、ある個人 の限界と可能性という二つの主題を語り、そして、深刻な疑問を投げかけている。 ウィリー・ローマンは、自らの人生を「見本のはいった大きなカバンを二つにさ げて」象徴して見せた。一つには息子の愛情を、もう一つには社会における信頼 を、「手のひらに痛みを感じる」ほどに詰め込んで、セールスマンとして旅を続 けてきた彼は、我が家に着くと「ほっとして重荷をおろし」最後の日を迎えたの だった。

  『セールスマンの死』はミラー劇の中でも際立った特徴を有する作 品であるとして、佐多真徳氏は次の2点を示している。

(1)二人の息子という一定の家族のパターンにおいて、人間の生存、安住の地の 探求が取り扱われる。(2)人間の生存は社会全体の問題だが、その家族パターン の中で社会問題が巧みに展開されるダイナミックな劇構造が工夫されている。 (注23)
この2点は『セールスマンの死』の悲劇性に関して基本的な役割を果たしていると いえる。

  ウィリーは、長男ビフに絶大な期待を寄せ、また、息子の愛情によっ て築かれる独自の世界において、虚偽に満ちた生活を営んだ。そのために、彼の 理想が達成されないことから、ウィリーの世界も崩れ、「安住の地の探求」に苦 闘しなければならなくなった。

  さらに、ウィリーの挫折は父子間の葛藤にとどまらず、社会におけ る自己の属する集団、つまり、社会にまで及んだ。セールスマンとしての立場に 父親としての威厳を認めてきた彼にとって、現実は二重の苦しみとなって襲いか かり、ウィリーは「疎外感」に悩むのだった。いかなるものよりも高い価値を与 えてきたものに裏切られた絶望と孤独は、当然のことながら、彼を精神的挫折に 追い込んだのである。

  クライマックスに向かって、隠されていた過去の過ちが暴かれると、 ウィリーの行動は「『正当な』地位」を獲得すべく、<急転>し、「人間の 生存」のために闘争を試みようとした。様々な<判断の誤り>の中に展開し た彼の人生は、終わりに近づくにつれ、自らの間違った世界が破滅を招いたこと を<発見>するものの、最後の<判断の誤り>、つまり、息子の愛情を 取り戻したという錯覚に最後の希望を見出して、「一命をなげうつ覚悟」を決め、 その実行に移った。

  『セールスマンの死』の悲劇性を支えるものの根底には、自分自身 の存在証明への渇望が認められる。現代社会における底知れぬ飢えと渇きによっ てかき消されようとする「アイデンティティ」の探求こそが、唯一の生存理由で なくてはならない。それこそが『セールスマンの死』の法則であって、ミラーの 理念を発展させたと考えられる。そうして、社会問題を発展しつつ、同時に個人 の正確な心理描写にも焦点を当てることの可能な方法を確立したのである。ミラー 自身、両者の関係を"the fish is in the sea and the sea inside the fish" (注24)と表現しているように、『セールスマンの死』の悲劇性は、社会劇 と心理劇という「水魚の交わり」によって創り出されたものと言えよう。

  ウィリーの死には複雑な秘密が隠されていたが、たとえ全てを知っ たとしても、彼の死を悲劇に値しないと決めてしまうことはできないのではない だろうか。なぜなら、ウィリーの人生はアメリカの国民性にあまりにも深く根ざ していたために、彼はアメリカ人らしく生きることにロマンを感じ、魅了され、 その抗うことのできない壮大な力によって運命を支配されたからである。何か得 体の知れないものによって引き起こされた恐ろしき結果。それが、ウィリー・ロー マンの悲劇なのである。

  ベンが、アラスカへ夢を求めた父親を追ったように、息子のハッピー も、父の果たせなかった夢を実現させることをその墓前で誓っている。ウィリー の後継者として、ハッピーは父のカバンをその両手に取ろうとしているのかもし れない。そして、悲劇は消滅することなく、語り継がれることであろう。





  1. Arthur Miller, "Tragedy and the Common Man," The Theatre Essays of Arthur Miller, ed. Robert A. Martin (New York: Viking, 1978), 3.
  2. Thomas Twining, Aristotle's Treatise on Poetry (New York: Garland Pub.Inc., 1971), 75.
  3. ノーンマンド・バーリン、長田光展・堤和子・若山浩訳
    『悲劇、その謎』(東京、新水社、1987)300頁。
  4. Twining, Poetry, 100.
  5. Arthur Miller, "Introduction" to Arthur Miller's Collected Plays (New York: Viking, 1957) 23.
  6. Ibid., 23.
  7. 倉橋健訳、『アーサー・ミラー全集T』(東京、早川書房、1988)140頁。
  8. Arthur Miller, Arthur Miller's Collected Plays以下、 Death of a Salesman からの引用は、上掲の書による。
  9. バーリン、『悲劇』 301頁。
  10. Miller, Theatre Essays, 5.
  11. Brian Parker, "Point of View in Arthur Miller's Death of a Salesman", Arthur Miller's Death of a Salesman, ed. Harold Bloom (New York: Chelsea House, 1988), 27.
  12. バーリン、『悲劇』 303頁。
  13. Arthur Miller, "On Social Plays", The Theatre Essays of Arthur Miller, 57.
  14. Leonard Moss, Arthur Miller (New York: Twayne, 1967), 45.
  15. Miller, Theatre Essays, 4.
  16. 倉橋訳、『全集T』 315頁。
  17. Moss, Arthur Miller, 57.
  18. バーリン、『悲劇』 300頁。
  19. Miller, Theatre Essays, 6.
  20. バーリン、『悲劇』 309頁。
  21. Clinton W. Trowbridge, "Arthur Miller: Between Pathos and Tragedy," Arthur Miller, ed. Harold Bloom (New York: Chelsea House, 1987), 42.
  22. 『セールスマンの死』につけられた副題。
  23. 佐多真徳『アーサー・ミラー 劇作家への道』(東京、研究社、1984) 51頁。
  24. Miller, "Introduction" to Collected Plays, 30.

The Chukyo University Society of English Language and Literature
Last Modified: Thu Apr 30 17:43:58 1998

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